網谷エイさんは当時14歳。爆心地から2.2キロの稲佐町で被爆しました。女学生でありながら報国隊員として警察で働き、あの日、家族も全員が被爆。その後結婚しますが子供ができず、今は養女と二人で静かに暮らしています。
【被爆前、どんな日々を、―】
女学校の3年でした。毎日弁当を持って、うちから1時間ほどのマルモ工場っていう兵器工場で手りゅう弾の部品を作ってました。警戒警報が鳴ると、学校から選ばれた18名が、稲佐警察署へ補助員として行ってました。警察の制帽を被って、腕章をして。何か警察官になったような気がしていました。
【報国隊とは】
報国隊とは、「国に報いる」ですから、国のためにと、あの頃は食料のカボチャやイモを作ったりしました。学校の校庭は畑でした。工場で部品の流れ作業もしました。警報が鳴ると、18名が救急袋を担ぎ、制帽をかぶって、稲佐警察署へ行くのが私の日課でした。警察署は3階建ての大きい建物でした。警戒警報、空襲警報の発令、解除をする人たちもそこで仕事していました。そこや、防空ごうで仕事している人に水を持って行ったりするのが私たちの仕事でした。
【当時の家族は】
長崎市の伊良林という所へ親戚がいたので、妹2人と弟1人と父親が、原爆の1週間前に行きました。家にいたら死んでいましたね。ちょうど1週間前に、母親が夢見が悪かったと言うので、疎開しようということになって。私は毎日、報国隊で行かなきゃいけないので、銭座町に残りました。その日、私は工場へ行って、母親が1人残っていました。だからもし親が死んだら私も死ななきゃと思いました。もう丸焼けでしたから。父親は、弟たちを連れて伊良林の方に行ったんです。
【被爆の瞬間】
もう言いたくないくらいです。警戒警報解除というのに、キーンって、あのB29の金属性の音がしました。「おかしいねー」「なんやろね」と友達と空を見上げました。きれいな青い空の中に3つ落下傘が落ちてました。その先にはひもがこう下がっていて、肉眼で見える物体がつってありました。友軍機が有限物資を送ってきたんじゃないかと、友達と言いながら見た途端にピカーッと光りました。私は顔が焼け、爆風で防空ごうへ飛ばされました。私の上にバタバタと人が重なってきました。
長いような気もしましたが、数分だったと思います。皆起きたけれど、目の前が真っ黒で誰が誰だか分かりませんでした。「痛いよー」「助けてー」という声が聞こえました。少し明るくなり、人々の顔が見えるようになりました。何とも言えない臭いがしました。前にあった3階建ての稲佐警察とか、拘置所の病院の便所が何棟も並んでいたのに全部なくなっていました。その何もない所の土台だけが残っていました。
【直後、家族の情況】
焼け跡に行ったら、母親が血だらけになって柿の木の所で倒れていたのを父親が見たそうです。頭がザクロみたいに割れていたらしいです。救急のお医者さんが頭を縫ってくれたそうです。私は5、6日後に初めて母親と会いました。兄弟はみんな助かりました。奇跡です。みんな中心地にはいませんでしたが、1カ月で焼け跡に来たんですよ。焼け跡になった自分の土地に、バラックが建ち始めていました。父もバラックを建てようと言い、そこに家族みんなで住みました。
【被爆後の惨状】
担架で、焼けた人がどんどん担がれてきました。私はどうしていいか分からず、被災者の様子を見ているだけでした。明るくなって見たら、ガラスが体に刺さっている人、衣服を着ていない人、手が焼けてドロドロの人とかいろんな被災者がいました。何をしたらいいのかさっぱり分からず、「私たち、何をしたらいいですか」と聞くと、菜種油をやけどをした所に塗ってくださいと言われました。
「水をくれー、水をくれ」と皆言いましたが、お医者さんに水をあげたらいけないと言われていました。「先生、この人水が欲しいって言うんですけど」と言うと、先生がその人の目を見て「この人ならばやっていい」「この人やったらいかんぞやったら死んでしまう」と、水をあげてはいけない人とあげてもいい人とがいました。あげていい人はすぐに死にました。私たちの服をつかまえて「死んでもいいから水くれー」と言いました。先生が、飲ませていいと言った人には一生懸命飲ませてやりました。「おいしかった」「ありがとう」と言った人は亡くなられるんだなと思うとつらかったです。もうただ無我夢中に水をあげたり、油をつけてあげました。
たくさんガラスが刺さった30歳くらいの女の人がいました。油をつけてあげようとすると、自分よりおんぶしている子どもを看てくれと言われました。見たら血が固まって、お母さんの背中がベトベトしていました。赤ちゃんの首がありませんでした。人々は黒く焼け、皮をぶら下げ、その皮は黒く縮まって皮膚から油みたいな水が流れ、焼けた爪が垂れ下がっていました。
夕方7時頃、死体が山になっていました。ひょっとしたら母もいるのではないかと、その焼けた所を全部探して歩きました。何とも言えない形相で死んでいる人たちを見ました。怖いとか臭いとか、そんなことよりも、ただ親の顔を探しました。
【母親、被爆後の症状】
5日目だったと思います。山を下って伊良林の学校に行きました。母親は頭がほとんど割れていたらしいので、それをきれいに縫ってもらっていました。頭髪は全て抜け、1本もなくなりました。
【タチバナの実で治療】
毒を体から出さないといけないと、タチバナの実を煎じて飲まされました。いっぱいの水に、タチバナの実を入れて4、5時間煮ました。私が飲むのをいやがると「飲まなかったら、毒が体に回って死ぬ」と父親にたたかれ、3日間飲まされました。飲んだ翌日、真っ黒の便が出ました。
【被爆による苦難】
当時は人のしない苦労をしました。毎日繰り返し死体を焼きました。その臭いで、ご飯が食べられませんでした。1番つらかったのは、長崎は全滅ではなく、3分の2が焼けたのです。食べ物がなく、毎日草ばかり食べていました。14、5歳くらいになると年頃ですから、何で原爆の被害の軽い所とひどい所があるのかなと娘心に思いました。21歳で結婚して石川県に来てから、被爆したことは、ものめずらしく聞かれるのも思い出すのも嫌で、誰にも言いませんでした。それから健康でいて、被爆したことをずいぶんたってから言いました。
【子供が産めない身体に】
娘は養女です。どうしても子どもができなかったので。原因は病院に行っても分かりません。健康だけどできませんでした。同じできないのなら、女の子を育てた方がいいなと夫が言ってくれたので、知人の子どもさんで、3カ月くらいの子を育てました。
【原爆投下への怒り】
あんな怖いものはないです。被爆した方は、水は飲めないし、飲めば死ぬし、やけどだけで助かった人も白血病で亡くなられました。核兵器禁止と言っていますが、当たり前だと思います。人類の破滅です。若い人たちをこんな目に遭わせたくないなと思います。
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