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飯田 マリ子(いいだ まりこ)
性別 女性 被爆時年齢 13歳
収録年月日 2006年10月4日  収録時年齢 75歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:2.3km) 
被爆場所 長崎市立山町[現:長崎市] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 長崎県立長崎高等女学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

飯田マリ子さん、当時13歳。長崎高等女学校の学生でした。爆心地から2.3キロ離れた立山町の自宅で被爆。B29の爆音が覆うように響いた直後、強烈な白い光が目の前を走り、その瞬間、家とともに爆風でなぎ倒されました。
 
 
戦争が激しくなり勉強どころではなくなり、二年生になってからはまったく授業の無い日々でした。学徒動員として、雨天体操場と呼ばれた体育館の中で、飛行機の部品を作る作業をさせられていました。二年生は言われるままに学校工場で飛行機のボルトやネジを作る作業に動員されていました。その他、防空壕掘りや敵兵上陸に備えた陣地を、ツルハシとかシャベルを使って作っていました。
 
【8月9日】
空襲警報が鳴り、慌てて一番下の3歳の弟(17年生まれ)と妹(15年生まれ)の二人を連れて近くの防空壕に向かいました。家から約300メートル離れたオスワ公園の中に、町会の横穴防空壕があり、そこへ二人を連れて入ってました。ところが空襲警報がまもなく解除され、警戒警報のまま、敵機が見えなくなってかなりの時間が過ぎました。だから、次々と皆さんが自宅に帰られてましたので、私も弟と妹をつれて自宅に帰りました。帰って直ぐ、母が私に台所に行ってと言ったんです。私だけが台所に行って、すぐのことです。家の上空に、アメリカのB29の爆音が覆うように、突然響いてきました。
 
私がB29に気付いたと同時に、奥の部屋から母の敵機来襲の声が聞こえてきました。皆こっちに来るように呼ばれたその直後でした。立山町の家は、近くの元山の山頂に高射砲の陣地があったんですが、その上の方から、ピカッと白い光が私の目の前を走りました。写真を撮る時のストロボの何百倍もあるような光でした。アラッと思った瞬間、今度は、凄い力でなぎ倒されるように吹き飛ばされたと思います。
 
なぎ倒されて意識が分からなくなりました。それから、何秒経ったか分かりませんが、気が付いた時には私の居た所は全壊してました。体の上には、材木や家の土壁など色々な物が一杯あり、何がなんだか分からない状態で真っ暗でした。その日は、朝から青空が広がり暑い夏の日だったはずが、真っ暗になってるんです。私は瞬間、家に爆弾が落ちたんだと思いました。真っ暗な中で時間が経つにつれて、視界が、こげ茶色から茶色に変わっていきました。なんとか辺りの様子が見えるようになったんですが、今まで有った近所の家や私の家も無残に倒壊していて、凄く離れた遠くまで見渡せるんです。
 
辺りがシーンと静まりかえっているので、私はまず耳に手を当てました。爆風の時に耳をやられた、私はもう耳が聞こえなくなったと思いました。段々見えるようになってきて、本能的になんですが、奥の家の茶の間に向かって歩き始めたんです。畳は全部捲れて床板だけになり、建具や家具が全部倒れ、ガラスが一面に飛び散ってました。夏だったので、裸足で歩いたり出来ないはずですが、夢中で奥の方に行きました。後から母が言うには、ゴミの塊みたいな姿だったそうです。母が私を呼ぶ声に返事をしても、母は最初は気付いてくれなかったんです。声は聞き取れないし、姿は判別できなかったそうです。
 
母が、早く防空壕に逃げなさいと一生懸命急かすので、とにかく夢中でした。当時、救急袋や防空頭巾を子供は皆、必ず持ってましたが、それも何処にあるか分からないんです。それで、裸足のまま3歳の弟と5歳の妹を連れて、朝逃げた防空壕に向かって、家の跡とも道路とも区別のつかない道を夢中で急ぎました。すると、途中で空襲警報をメガホンで叫ぶおじさんが、「何をしている。早く防空壕に入れ。」と怒鳴るんです。夢中でいつもの公園の防空壕を目指してましたが、結局、手前のすぐ傍にあった近くの防空壕に飛び込みました。
 
もう恐ろしくて、2人の弟と妹も一緒に隅っこの方に固まっていました。かなり時間が過ぎて、何時か分かりませんが、今度は戸板に乗せられて背中じゅうを火傷した人が運ばれて来ました。もう全部赤ムケでした。火傷の場合は、火膨れが凄くて見るのも耐えられない様な方々が、次々運ばれて来てました。そして3歳の弟がぐずるんです。「駄目よ静かにしなさい」と2人をなだめて小さくなっていました。だいぶ時間がたち夕方だったと思います。もちろん、時計なんか持っていませんから、何時だか分かりません。少し日が陰った頃に、防空壕に段々煙が入って来たんです。

浦上は火の海ですから。このまま居ると蒸し焼けになるから、もっと山の上の市民グラウンドの防空壕に逃げなさいと言われたんです。命からがら逃げて来た人達が道端に沢山いました、洋服も着て無くて、ほとんど裸のようでした。火膨れで男か女か分からない人達が、助けを求める声や、「水ばくれんね」と長崎弁で水を求めて苦しがっている人達を何人も見ました。山の上の防空壕にやっと辿り着いて座ると、そこも逃げてきた人達が皆でひしめいていました。隣とか前とか、座ると言っても土の上に転がったりしてたんです。そこでも、苦しいとか、水が欲しいとか言ってました。今まで私と話していた人が、急に何も言わなくなり、息耐えるんです。どこも怪我や火傷も見当たらない人が、次々と亡くなっていきました。
 
私達が市民グラウンドに逃げたらしいと誰かに聞いた姉が、探しに来て偶然会うことが出来ました。抱き合って喜びました。「良かったね、もうどうしたかと思って探したわよ」て姉が言いました。その市民グラウンドは、高い所にあったので長崎が下の方に見えるんです。夜は、火の海がもう直ぐそこにどんどん押し寄せてくるのが見えるんです。そこで3日間野宿しました。近所の人も次々亡くなっていくんです。皆、髪や睫毛が抜けて、鼻血が出たり、赤い斑点が出たりしてました。私も近距離ですからね、2.3キロと言うのは直爆ですよ。次は私の番だと思いました。当時は、病院も無いし今で言う健康診断とか検査もまったく無いですから。特に、歯を磨くと血が出て、明日、明後日には私も死んでいくんじゃないかと、本当に死と背中合わせの何年かを過ごしました。
 
【母が胃がんに】
家は外人墓地のすぐ上にあって、爆心地のすぐ近くだったんです。母はそのお墓の事が心配で、被爆後何日かして見に行ったんです。石像は皆倒れてどこかに飛んで無くなっていたと言ってました。おそらく何回か見に行ったと思います。そこで、かなりの放射能を受けたと思います。被爆後、1,2ヶ月過ぎた頃から凄く具合が悪くなりました。体調を崩した母を皆で心配してました。何か体にシコリが有ると言い出したのは、1年後の昭和21年暮れでした。昭和22年の1月に入院して手術を受けましたが、もう手遅れでした。手術後もどんどん具合が悪くなり、その年の9月1日に亡くなりました。
 
【その後の体調】
私は肺浸潤の病気になり約1年半療養をしていました。その後、仕事の関係で東京に出て来ましたが、ちょっと怪我をしても直ぐ化膿して傷が大きくなるんです。東京のお医者さんは特異体質だと言われました。体質的に薬の抗生物質は使えませんと言われました。それから、1977年広島で「被爆問題国際シンポジウム」があった時に、体調が凄く悪くて、病院で子宮筋腫と言われ、直ぐに手術をしました。それが、46歳の時です。手術は子宮全摘で卵巣も片一方を摘出しました。私は46歳で子供が産めない体になってしまいました。
 
【伝えたいこと】
全世界の人々が、戦争や核兵器の無い、平等に平和で豊かな世界が、一日も早く実現するように心から祈っています。私は、あの原爆を体験して、今まで生きていると言うよりも生かされてると思っています。あと何年、生きられるか分かりませんが、あの時の経験や体験、被爆の実情を一人でも多くの人達に話していきたいと思います。私達の被爆体験を、体験してない若い人達に引き継いでいってもらいたいと心から願っています。再び世界のどこにも被爆者を作ってはいけないと思っています。
 

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