生島渉さん、当時13歳。勤労奉仕の最中、突然、青空に響き渡った爆音。退避を知らせる警笛の直後、辺り一面、真っ白な光に包まれました。猛烈な爆風で転げ落ちるように壕の中へ。その後、真っ黒な雲に覆われた長崎上空を眺めるその体に、すすのような黒い雨が降り注ぎました。
【当時の学校生活】
長崎工業の航空課1年生でした。当時、初めて航空課が出来ました。英語も習っていました。楽しかったのは飛行機の力学の勉強で、教えてくださる先生がすぐげんこつをするので「げんこつ」というあだ名だったのが印象に残っています。
【8月9日】
朝から警戒警報が鳴り、8時過ぎに解除になりました。本当は空襲警報、警戒警報が鳴ると学校には行かなくて良かったんです。私達は家の反対側にあるタテワラと言う山の方にみんなで向かって行きました。そこは天草側の綺麗な海の見える山の稜線で、司令部の陣地構築をしていました。山の稜線より敵の戦車が上がって来れない様に、5Mぐらいカットして戦車用の断崖を作っていました。その後には深い壕も作っていました。学校は6クラスあり、毎日3クラスずつ交代で学校で授業を受けるクラスと、陣地構築の勤労奉仕に行くクラスがありました。
警戒警報、空襲警報も解除されていた11時頃、爆音がしました。味方の飛行機かと思いましたが、監視の兵隊が「退避」と警笛を鳴らしました。私は土を運んでいましたが、驚き土をひっくり返してしまいました。防空壕までは50Mぐらいあり、そこに走って向かいました。「退避」と言われ、壕に向かおうとした時、真っ白い光が来ました。辺り一面が見えなくなる様な光で驚きました。近くに爆弾が落ちたと思い、何が何だか分らない状況で壕に向かって走り、飛び込んで入ろうとした時、ものすごい爆風が来ました。光が来て、2、30秒ぐらいして爆風があったと思います。周りの木が斜めになり、私は風に飛ばされ、壕の中に落ちた感じでした。音はあまり良く覚えていません。「バンッ」というのではなく、木などを取り去っていきそうな感じの風の音がしていました。
監視の兵隊に「命令があるまで出るな」と言われ、その間に、お弁当を壕の中で食べました。壕には3時ぐらいまで潜ったままでした。3時過ぎになり、監視の兵隊が「上がって良い」と言われ、上がって直ぐ長崎市街上空を見ますと真っ黒になっていました。みんなで「どうしたことか」と思っていました。その場から遠くに離れることが出来なかったので、そこでウロウロしていました。そのうち黒いゴミの様な雨が降ってきました。それは石炭の煤の様な小さな塊で、掃うとそのまま取れました。
6時過ぎぐらいに、兵隊から近所の者同士で帰って良いという命令が出ました。お互い住んでいる所は、だいたい分るので、私達は帰りました。私の家はヒガシグチマの高台にありました。家から少し上がるとお墓があり、そこからは県庁なども見えていました。家に帰ると、天井が吹き上がっていました。家には、三菱造船に行ってた兄と、爆心地近くの長崎地方貯金局に勤めていた母が2人とも体調を崩したりで仕事を休み居ました。姉は鉄道の管理部に行っていましたので居ませんでしたが、みんな元気だったのでホッとしました。
山の上には墓場があり、その横に少し軟らかい岩があり、1日に何時間か皆で掘り、深い防空壕を作っていました。防空壕を掘る為、家と行ったり来たりしていました。家にはご飯を食べに戻ったり、夜には壕に入ったりしていました。夜、家の上にある墓場の方に行き、長崎県庁や浦上駅の方を見ると、真っ赤な炎や煙が上がっていました。長崎県庁などがボンボン燃えていました。「これは大変だ。何なんだ」と思いながら、その夜を過ごしました。
【3日目、浦上の叔母の家へ】
行きは県庁の前を通りオオハトに着きました。県庁から炎は出ていませんでした。電車通り沿いに長崎駅の方に。その頃には重症の方達も救護所に連れて行かれ、怪我をした人や、顔に赤チンをぬった人などがウロウロしていました。長崎駅前まで歩いて行くと、半死半生の方はいませんでしたが、重症の方もウロウロしていて、何か臭いもするなか、叔母の家に向かいました。膿と肉の腐った様な臭いがしていました。長崎駅から少し行くとガスタンクがありましたが破裂していました。側には倍ぐらいに膨れ上がった馬が2、3頭ゴロゴロっと転がり死んでいました。その上にはハエが沢山集っていました。
その頃から灰だけになった遺体があったりしました。モリ町を過ぎ、浦上の手前に長崎の製鋼所がありました。その辺りに行くと石炭の山がボンボン火を噴き燃えており、人間の死骸もゴロゴロしていました。浦上駅ぐらいまで行くと、人間の死骸も茶色くなり、何か分らないようなものがゴロゴロとありました。またしばらく進むと、死骸は炭の様に真っ黒になっていました。死体を捜しに来ている人達も居ました。凄い臭いがしてました。私はオオムラの方の学校に疎開しましたが、1年経っても凄い臭いのするところがありました。
その頃には何が何だか分らなくなっていて、死体を見るのも平気になっていました。爆心地から250、60Mのところに叔母の家はありました。その辺りは新興住宅街でした。着いた時には何もありませんでした。叔母の家の手前の方は真っ黒焦げでしたが、叔母の家に行くと砂漠の様になっていて、瓦礫や瓦の欠片が少しあるぐらいでした。道の様子などから母に「叔母さんの家はここばい」と言いました。叔母の家には、叔母の母も時々遊びに来ていました。私の母はすぐ捜し始めましたが、何も無く、そこには潰れたミシンが出ていました。ミシンの影には叔母の白骨遺体がありました。原爆が投下された時間、11時ぐらいですから、台所に居たのではないかと思います。叔母の所には「せっちゃん」という2歳の可愛いいとこも居ました。投下の2、3日前に私の家に、叔母に背負われ来ていました。その子の骨も出てきましたが、取れない状態なんです。母が新聞紙に叔母といとこの骨を拾っていました。その間に私は周りを見て回りました。
叔母の家から200Mぐらい行くと電車の終点があり、そこから少し出たところに焼けて骨だけになった電車がありました。椅子があったと思われる鉄骨の下に、人間が座ったままの格好で炭になり亡くなっていました。そこから戻り、叔母の家から100Mぐらいのところに行きました。当時は家の床下に防空壕の様なものを掘っていたのですが、そこに何かある様な気がして何となく見てみました。そこには蝉の抜け殻のように、あめ色になった死体が2体ありました。驚きました。そのまま黙って叔母の家まで戻り、母も骨を拾い終わっていたので、母と一緒に持ってきた弁当を広げました。少し遠くを見ると死体がボロボロあるのに、平気になっていました。おにぎりやカボチャなど家から持ってきたものを食べました。普通なら食べる気にもならないのですが、頭が麻痺していました。その後何も話さず、辺りを見ながら家まで2時間ぐらいで帰りました。
【心の傷と体調】
田舎に行くと外に焼き場があったりします。臭いが出ているのかもしれません。その場所を見たわけではありません。山の現場などで話をしているのに、「パッ」と原爆の時の情景が目の前に出てきます。それはしばらくすると消えます。何故かと思い、よく調べてみると山の、見えなかった場所に焼き場があったりしました。体の異常は精神的なものと、熱が出ました。翌日に熱は治まるのですが、その後には体中の節々の骨がバラバラになるみたいになっていました。神経がやられたのかもしれませんが、真っ直ぐ歩けませんでしたし、階段も足を上げる間隔が合わず、つまずいたりしました。熱が出た時は1日ゆっくりして、2日ぐらいで治りますが、風邪も引いていないのに何故そんな症状が出るのか。今でも原因は分りません。
【伝えたいこと】
原爆は絶対廃絶しないといけないと思います。どう廃絶に持っていくか。平和都市宣言や核兵器廃絶と言ってますが、具体案がありません。運動している人達で今の若い人は何%かだと思います。2020年までに無くす為、私達が若い方に悲惨さを教えていかないといけないと思います。
|