市原憲二郎さん、当時9歳。爆心地から、およそ3.8キロの滑石郷で被爆。髪の毛は抜け、死んだ赤ちゃんを抱いて爆心地方面から向かってくる女性の姿が今も忘れられません。防空ごうの中、9歳の自分に助けを求める人たちを見て、地獄絵の中にいると感じました。報復の心をなくせば和解に結びつき、平和はつくれると語ります。
【8月9日】
8月9日、私はたまたま学校へ早く行きませんでした。普通ならもう9時ごろには学校に行っていました。父は家から道ノ尾駅に行き、プラットホームで待っているときに被爆しました。兄は学徒動員で三菱重工業(株)長崎兵器製作所の大橋工場に行っていて、そこで被爆しました。兄は鎮西学院中学校というミッションスクールに行っていて、そこから学徒動員で派遣されていました。姉は活水女学校1年生だったのですが、たまたま家にいました。祖母、姉、私、それから、母、妹二人は家にいました。
私はたまたま午後からの登校日でしたので、自分の部屋で予習している最中でした。母は机の隣にいました。そのときにパァーッと部屋中が光で包まれて、「何」と思った途端に、私は隣にいた母に首をつかまれて、「伏せー」と言う声とともに机の下にもぐり込みました。姉妹や祖母は別の部屋にいたので、その瞬間の様子は分かりません。机の下にもぐり込んだ途端に、それこそ直下型地震みたいにザァーと家が揺れました。昔の家は竹を組んで土を塗っているので、一度には崩れませんでした。しかしバラバラバラと壁は随分落ちました。机の下にも壁土がコロコロコロと落ちて来ました。その音以外は何も聞こえない静寂の世界でした。
あの静寂は何だったろうと思います。その前までは夏ですからセミがジージーとうるさいぐらいに鳴いていました。そのセミの音も一切聞こえませんでした。だから生きとし生けるものは全部亡くなって、何もない世界に自分が追い込まれたという状態を机の下で感じました。その瞬間に思ったのは、「わが家の隣に爆弾が落ちたな」「直撃でなくてよかった」ということです。静かになって机の下から顔を出してみると、窓も何もありませんでした。「何、これ」という感じでした。やっぱり爆弾が落ちたと思い外を見ると、外は何の変化もありませんでした。風がそよそよと青々とした田んぼの稲に吹いていました。「うーん、あれは何だったのか」と母と顔を見合わせると、母はガラス片が当たってここから血を流していました。
そこで母は初めて我に返って、妹や祖母の名前を呼びました。するとそれまで静かだった隣の部屋から姉が飛び込んできました。こっちの部屋には祖母と妹がいて、はじめは何にも言わなかったのですが、母が声を掛けると、急に「わーっ」と泣きながら私たちの部屋に飛び込んできました。その姿を見ると妹が一番けがをしていました。祖母も血を流しながらヨロヨロと今にも倒れそうでした。「あっ、もうこれは大変だ。とにかく傷の手当をしてもらおう」と思いました。宮島さんという退役した軍医さんがいて、知っている人を診てくれていたので、宮島軍医のところに行って手当してもらうことにしました。みんなで手を引きながら、手当をしてもらいに行きました。
母、祖母、姉、私、妹と5人が外に出ると、何もあまり変化はありませんでした。ただ遠くを見ると長崎市内のほうに煙がちょっと見えるぐらいでした。煙があちこちで、ちょこちょこと上がっていました。だからあんなに遠いところに落ちた爆弾で、わが家がこんなふうになるはずはないという不思議な気持ちでした。あぜ道のほとりを歩きながらみんなで宮島さんのところに行きました。宮島さんの家はきれいでおしゃれな家だったのですが、吹き飛んでしまって見る陰もありませんでした。「なんだー、これっ」と思いました。すると「大丈夫かー」と言って宮島先生が出てきました。先生の家の中はガタガタでしたが、その中から探して持ってきて包帯をしたり手当をしてくれました。何が起こっているのか分からない私たちは、宮島先生なら何でも分かると思い聞きました。「先生、どうしてこんなことなるの」「いや、わしも分からん。何が起こるか分からないから、しばらく様子を見たらいいだろう」という答えでした。
宮島先生の家のすぐ横に20人ぐらいが入れる防空ごうが山に掘ってあったので、そこに入って様子を見ようということになりました。しばらくたつと宮島先生のところへけが人が訪ねて来るようになりました。それは道ノ尾駅の近くに小さい鉄工所の町工場があったので、そこから来た人たちでした。時間の経過とともに、けがのひどい人たちがどんどん現れて来ました。始めは私達みたいに軽いけがで、血を拭いて包帯を巻けばいいという程度だったのですが、そのうちに今度はやけどを負った人などが来ました。市内の方向からどんどん流れてくるけがややけどをした人たちは、防空ごうのほうにも、道ノ尾のほうにもみんな逃げて来ました。そして「市内はもう大変だ」という話をしていました。
そうこうしているときに父が帰って来ました。父は道ノ尾駅のホームに座っていたらしいのですが、原爆の光に当たったほうの顔半面だけが真っ赤にやけどをしていました。後の半分はなんともありませんでした。私はあれにはびっくりしました。こっちの顔半面だけが真っ赤でした。私は父の顔のやけどを見て、「何、それっ」と思いました。まだその理由がよく分かりませんでした。父が一番心配だったのは、学徒動員で大橋工場に行っている長男のことでした。「向こうは大変なことが起こっているから捜しに行く」と言いました。私も「兄ちゃんを捜すから連れていってくれ」と、一緒に行き始めました。すると国道を向こうから被災した人がどんどんやって来ました。髪の毛が抜けて、死んだ赤ちゃんを抱いた人を見ました。あの姿はショックでした。これは大変だということになり、父は私を連れて兄を捜しに行くのは断念して、私をまた防空ごうまで連れて行きました。そして私には気づかれないように父は一人で兄を捜しに爆心地の方に入りました。
あの光景は、私が小さい頃に祖母に見せてもらった、地獄の中でみんなが手を伸ばし、すがりついて一生懸命に助けを求める地獄絵と全く同じだと思いました。人間は本当にどんなときでも生きたいという気持ちはどこかに持っています。その生きたいという姿があのようなときには如実に出るものです。防空ごうの中で私が何か手伝おうと思ってちょっと歩くと、9歳の少年である私に、けがをした人たちがこうやってすがりついてきました。地獄絵の中にいた私は、自分は手を差し伸べて助けを求める人間ではないけれど、この中で何が起こっているのか、なぜこんなことになったのかが分からないままでした。私はいわゆるぼう然自失でした。自分を失くして、ぼう然として、思考停止状態でした。9歳の少年が、そういう中にいたのです。
【母の死と人間の尊厳】
秋月先生は、わが家の主治医というか家庭医みたいな先生でした。私の母も秋月先生の下で亡くなりました。聖フランシスコ病院にやっとカナダ人の司祭が帰ってきていました。その礼拝堂で粗末でしたがきちんとお棺に入れて、白百合の花で飾り、讃美歌をみんなで歌って、荘厳に母の葬儀が行われました。あの道の裏の山裾や宮島さんの家の庭先などで、どこから来られたのか分からない死体を毎日毎日焼いていました。お祈りもされないままで処理されました。あれが人間の扱いなのでしょうか。あれは今で言えばペットより悪い扱いです。犬でも猫でも、死んだらもっと大事に扱っています。あの人たちは生きたくても生きられなかったのです。
長崎で7万4千人が死にました。みんな生きたかったのです。証拠に私がその人たちの間を歩くとき必死になって、「助けてください」と私の足にすがりつきました。それが無残にも殺され命を奪われました。私だっていつ死ぬか分かりませんが、死んだときに、「ああ、死んだか」と無残に放り投げられて、粗大ゴミみたいな扱いをされると思うと、私は死んでも死にきれないでしょう。
【病気・偏見との闘い】
被爆後の私の健康状態は、色々な病気ばかりでした。妻は私と結婚したばかりに、年中、介護人みたいなものでした。結婚しようということで、私は妻の父と母にお願いに行くと、待ち構えていて大反対されました。その原因は私が被爆者だということでした。それもあって被爆者に対する偏見について色々と聞いてみると、やはり非常に強いものがありました。何でもないときはいいのですが、結婚となると放射線の影響を考えて大変な問題になります。被爆者健康手帳を取ることは、「私は被爆者です」と言うようなものなので私は取りませんでした。その代わり、腸、胃、心臓、肺のすべての病気の治療費を全部払いました。他にもこの皮膚のブツブツは皮膚結核です。
「被爆者健康手帳を持っていれば、何百万円もタダだったのよ」と姉に言われます。「お金の問題じゃない。色々と自分の思うところがあるから」と私は応えます。さっき言ったように、私は両親の平均年齢の47歳をどんなことあっても超えて、50歳までは生きたいと思いました。だから生きたいという目標の50歳になったら、後は余力です。これは自分が与えられた命として、尚かつ余力の命として一つのミッションだと思い平和運動を行っています。
原爆を受けた私達の体は、精密に調べるとDNAが何箇所か壊れています。この前、広島大学の研究会に行って、広島大学の研究者にそれを見せられました。「ほら、これが市原さんのDNAだよ。ここのところ壊れているよ、ここ切れているよ」と言われました。壊れたDNAを持っているから、その影響で心臓も胃も悪くなったのかも知れません。肺結核もその影響だという人もいます。しかし私はそういうふうにあまり自分の病気を結び付けたくはありません。治癒力が落ちているのは確かだろうと思います。だから、本当なら吹き飛ばせる病も吹き飛ばせないで、それに負けることはあると思います。まともな遺伝子構造になっていないのだから、治癒力は落ちていると思います。
【子どもをあきらめる】
結婚して3年くらいたって「子どもがほしい」と妻が言いました。私は妻に「基礎体温を計って、婦人科で調べて来い」と行かせました。帰ってきた妻は「旦那さんが調べたほうが早いと言われたよ」と言いました。私は入院していたので、「ああ、いいよ、調べてもらおう」と言って調べてもらいました。すると私のほうに問題がありました。私がダメだった訳です。あのときも自分は被爆者だからかと半分思いました。その負い目が私は一生あります。誰だって愛し合って結婚した人間は、絶対に二人の結晶、子どもがほしいと思います。妻はそんな私の苦しい姿を見て、「もう少し頑張れ」とは言わず、「もういいよ」と言ってくれました。これは私の一生負い目です。私が子どものできない体になったということは被爆の方にはずっと語りませんでした。
このことはワシントンで初めて語りました。ある教会でアメリカの反核運動をしている50人ぐらいの人たちに語りました。私の話が終わると代表の人がすっと立ち上がり「かつて私の国があなた方にそういう苦しみを与えたということをあなたに謝罪したい」と言い、みんなが頭を下げてくれました。私はびっくりしました。そして涙がぼろぼろ出ました。
【平和について(ジョン・レノンの曲「イマジン」)】
ジョン・レノンが「イマジン」で言っているのは、すべての人間は色々の個性があって違うということです。そして違っていても、みんなが同じに生きられるということです。だから争うことをしなくて、地獄のことを思わなくて、どこにでも天国があると歌っています。彼がみんながきちっと生きていけると言っているのは、「報復の心をなくしなさい」ということです。私はいつもあちこちで「報復の心をなくせば、すべてが和解に結び付く」と語っています。
「和顔愛語」という言葉があります。友達の書家が書いてくれたのですが、「愛は許しです。許せるということが本物の愛」だということです。この言葉を持って語っていけば、みんな和やかな顔になると思います。許し合えるものを自分が出せるかどうか、そして許し合い、みんながにこやかに生きている。それを想像してみよう。戦争をして暗たんとした暗黒の世界、常に人間不安、その世界も想像してみる。こちらでは、本当に平和に生きることを想像する。だからイマジンという歌ではなくてそういうイマジネーションを広げるということがいかに大事か。それを広げることができたら我々は平和をつくれると私は思います。
今の憲法で大好きなのは前文と九条です。この前文と九条は、自分の目が黒い間は絶対に死守します。そのために私は闘うと言っています。そのために去年はかなり激しく活動しました。一昨年はニューヨークの国連本部まで行って、NPTの再検討会議で色々とやってきました。だから今度の15年には絶対にもう1回行って、「君らはなんで核兵器廃絶ということができないんだ」と訴えて来ようと思っています。
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