伊藤雅浩さん、当時10歳。爆心地から約12キロの北高来郡田結村で、ものすごい衝撃音を聞きました。姉や親戚を訪ねた長崎市内では、兵器工場の燃える鉄骨、人や馬の格好のままの白い灰、やけどして水を求めるたくさんの人を見ました。世の中に正しい戦争はない。絶対に戦争はしない、そう主張するのが自分の使命だと語ります。
【被爆前の暮らし】
私が生まれたのは長崎県長崎市です。5歳のときに浜口町から、松山町という電車の停留所のすぐそばに引っ越しました。小学校1年、2年は、城山小学校に通いました。城山小学校と山里小学校は原爆の被害が大きかった学校です。当時は国民小学校でしたが。城山小学校で1、2年のときの私の同級生も原爆でたくさん死んでいます。
私は小学校3年生のときに、父親が印刷屋をやっていた長崎市の紺屋町に引っ越しました。小学校4年生になると空襲が始まり、2学期から私はおばのいる愛知県の幡豆郡一色町に疎開しました。しかしその年の12月7日、東南海地震でおばの家が倒れてしまい、また長崎に戻りました。4年生の3学期は長崎の勝山小学校に通い、5年生の新学期から北高来郡田結村に住みました。父親は軍隊に行っていていませんでした。私は母親と母親のおば、そして小学校1年生と2歳の弟の5人で住んでいました。
家の目の前は海でした。実にきれいな海で、遠くのほうは天草です。すぐ近くに島がありました。海岸は沖合までずっと砂浜で、小さな船を出して魚を釣りました。箱めがねで上から見るとシロギスが見えてよく釣れました。海岸には防波堤があってそこでよく泳ぎました。
【8月9日】
8月9日は夏休みで私も弟も家にいました。2人の弟は海で遊んでいました。そのころは今のように海水パンツとかはなくて、弟は生まれたままのかっこうで泳いでいました。私は縁側にいました。来客があり母親も家にいました。ちょうどその時間になると弟が走ってきて、「向こうのほうでピカッと光ったばい」と言いました。「へえ、何が起こったんだろうね」と母が答えた途端、ズドーンとすごい衝撃音が来ました。
長崎の爆心地からそこの村までは、直線距離にして12キロぐらいです。原爆のことを「ピカドン」と言いますが、爆心地辺りではピカもドンも一緒になってきます。しかし1キロぐらい離れていると、「ピカ」と「ドン」の間が3秒ぐらいある。十何キロ離れていた我が家の場合は「ピカ」から30秒、40秒たって「ドン」とすごい衝撃音が来た感じでした。
当時は、爆撃があったらすぐに「伏せ」をするよう全員が訓練されていました。目と耳を押さえて、地べたに伏せるのです。そうしなければ、衝撃で目玉が飛び出し、爆発音で鼓膜が破れ、立っていると何かぶつかるかもしれないので、爆発などが起こったら「伏せ」るのです。だから、誰か言うこともなく、わが家でも全員が「伏せ」をしました。しばらくするとガタガターッと家が揺れて、すぐ元に戻りました。私は一体何事が起こったのだろうと思いました。
しばらくしたら白い雲がモクモクモクとわいてきました。いわゆるきのこ雲です。その日は晴れていて、真っ青な空に白い雲がわあっと上がりました。雲の中にピンク色の筋が入ってきれいだなと思って見ていました。するとあっという間にその雲が空一面を覆ってしまい、太陽が小さく頼りなく見えました。そのうちに真っ暗になった空から色々なものが降ってきました。降ってきたものの中に米穀通帳がありました。
米穀通帳は「私の家は何人いるからお米を1か月にいくら買っていい」というもので、それがないとお米が買えませんでした。非常に大事なものですが、その切れ端が空から降ってくるのは、とんでもないことが起こったと、小学校5年生の私にも分かりました。その米穀通帳に「長崎市駒場町」や「長崎市松山町」などの町名あるのを見て、母は私に「すぐ長崎に行ってこい」と言いました。
田結村の中で自転車を持っている小学生では私1人でした。私は自転車で時々長崎に行っていました。母親が「長崎に行ってこい」と言った理由は、一つは姉が長崎の女学校に通っていて、小島の知り合いのところにいるから安否を確かめることです。それから駒場町の谷口という親戚に行くこと。もう一つは父の印刷工場に行くことでした。当時、印刷工場は軍艦用の鉄板やリベットを作る工場になっていました。私は自転車で1時過ぎに長崎市内に入りました。
【長崎市内の様子】
長崎市内は焦げているようなにおいがしました。歩いている人はけがをしている人ばかりで「ああ、やられたんだな」と思いました。中通りという繁華街を通ると、道はガラスの破片でいっぱいでした。当時は空襲に備えて窓ガラスには必ず縦、横、斜めに障子紙を張っていたのですが、全く効果がなく、道はガラスの破片を敷き詰めたようでした。私の自転車はあっという間にパンクして乗れなくなりました。私は自転車を押して東小島の姉のいる家に行きました。その家はちょうど爆心地に向かって正対していたためか、外側だけを残して中がすっぽり抜けていました。まるで家を戦車が通り抜けたようでした。姉もその家の「おじさん」もけが一つなくて元気で、何となくのろのろと家の片付けをしていたのを覚えています。
姉は私を見ると、「ここは大丈夫だから、工場と駒場町に行きなさい」と言いました。駒場町の親戚の家に行き、工場に行って、何か困っている人がいたら田結村の私の家に案内しようと思っていました。私はパンクした自転車を押して行きました。海岸沿いに長崎駅、浦上駅と行くのですが、大波止を通り、長崎駅前辺りからは北の方はもう焼け跡になっていると感じました。浦上駅から向こう側は焼けて高い建物も何もなく平らになっているように見えました。
浦上駅前には、傷ついた多くの人が地べたに座り込んで、長崎弁で「水ばくれんね、水ばくれんね」と言っていました。通り過ぎる人々は、誰一人その人たちを手助けする人はいませんでした。浦上駅前の線路の上には、市電が真っ黒焦げになって止まっていました。乗客は全員が死んでいました。人間がこのように、あっと驚くようなかっこうで真っ白になっていました。馬も立ったままで真っ白な灰になって死んでいました。人間は2人並んで灰になっているのを見ました。あの真っ白な灰は風が吹いてさらさらと崩れてしまったのではないかと今でも思います。
それから北のほうに行くと、道路の両側の家が倒れて、崩れた屋根や壁で歩けませんでした。仕方なく国鉄の線路を歩きました。線路には爆心地から逃げてくる人や爆心地へ向かう人がたくさん歩いていました。やけどした皮膚をぶら下げて歩く人がたくさんいました。飛び出した目玉をぶら下げて歩いている人も2人見ました。あの目は見えないですよね。下の川を渡り、浦上川に出るまでに長崎兵器工場があります。コンクリートの壁があって細い道なのですが、そばの兵器工場は鉄骨がボウボウと燃えていました。
翌日に撮られた写真には、その鉄骨の構造物がグシャグシャになって落ちている写真が残っています。原爆の温度は、地上で4,000度とか、5,000度とか言われます。鉄は1,600、1,700度ぐらいで溶けるので、兵器工場の鉄骨が燃えるような状態になるのは不思議ではなかったと今では思います。私はその晩、小島の姉がお世話になっていたお宅に泊りました。高い所から、私は長崎市内がずっと燃えているのを見ていました。
【その後】
私は翌日の8月10日、ボロボロの自転車と一緒に田結村に帰りました。母親に言わせると、頭から足の先まで真っ黒で、かけていた眼鏡だけが白く見えたそうです。母親はびっくりして、すぐに私を井戸端に連れて行き、ヘチマのたわしで私の身体をゴシゴシこすって洗ったそうです。私が行こうとして行けなかった駒場町の親戚の一家は、11日に田結村の私の家にやってきました。おじのカツジとその娘のミヨコとマサコとイチコ。それから戦災孤児を1人連れてきました。そのおじが私の母親に「マツエが死んだ、アキラが死んだ」と大声でワアワアと泣きました。
その後、その一家は親戚を頼って鹿児島県の甑島(こしきじま)に行きました。昭和20年は非常に台風の多い年で、甑島(こしきじま)にも大型の阿久根台風が直撃しました。おじの一家も豪雨の中を逃げ回りました。その中で姉のミヨコは肺炎になって亡くなりました。ミヨコはその前から原爆症の症状が出ていました。私はミヨコも原爆で死んだのだと思っています。
それから私が行けなった父の工場には母が何日かたってから行きました。工場内で働いていた9人は全員が即死でした。崩れ落ちた工場に残っていた金庫を母が開けてみると、中にお金や株券がきれいに残っていました。「よかった」と言って母がさわるとお札も株券も、パラパラ粉になってしまったそうです。あれはさわらなければよかったと母は言っていましたけど、そのような状態だったそうです。
【伝えたいこと】
世の中には正しい戦争はありません。あらゆる戦争に反対してください。戦争は絶対しないでください。そう主張してくださいと学校でも言っています。いつでもそれを言うことが使命だと思っています。
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