浦田正人さん、当時9歳。爆心地から3.5キロ離れた自宅近くの神社で被爆。飛行機の爆音がした直後、目の前が濃いオレンジ色に染まりました。夢中で伏せ、頭上を一斉に舞い散る木の葉。防空壕にはたくさんの人が逃げてきます。そして、それが新型爆弾だという会話が飛び交いました。
【当時の学校生活】
警戒警報が鳴ると皆並んで学校から帰り、解除になると戻るという繰返しでした。敵機来襲になると、家に居たり、防空壕に入ったりしてました。サイレンが鳴るのであまり学校に行かず、近くに若宮神社というのがあり、そこに学校から机と椅子を持ってきて境内で勉強してました。どのくらい続いたか分りませんが、空襲や警戒警報が鳴っても帰る様な状態でしたので、学校には行かず神社でみんな勉強してました。神社には国民学校の先生をしていた「トシ子さん」というお姉さんが居て、勉強を教えてくれていました。
【8月9日】
その日は天気が良く、空襲警報が解除になり、警戒警報になっていたんです。そこに飛行機の爆音がしてきました。家の側に居たので、家を見に行こうと橋を渡ろうとしたところ、オレンジ色よりも濃い、凄い光が光りました。何処に逃げたらいいか分らず、目の前は真っ赤になっていました。私のお婆さん、叔母さん、近所のおばさんが近くに居ました。橋を渡り、光もおさまり、音もした様な感じでしたが、4人で鳥居のところに伏せました。すると、爆風が凄く、木の葉がドンドン散ってきました。爆風が終わると大きな木の間から、枯れ木の様に火がさしてきました。
散った木の葉で滑りながら100メートル離れた、山の横穴に掘った防空壕に逃げようとしました。その防空壕は3軒で掘ったのですが、炭鉱のような所に3ヵ所から入れるようなところもありました。そこが遠いので神社の山を掘っていました。その防空壕には、神社の人と、ウチと、ウチの上の家の人3軒で。その上の家には私の4つ年上の子がいて、血だらけで帰ってきたんです。体が半分以上真っ赤になり防空壕の入り口に座ってました。タオルで傷口を押さえてたのを覚えています。下からどんどん人が逃げてきました。ずっと下の方は燃えていました。山の平らな所には20人ぐらいの人が石垣に座り休憩していました。
夕方には皆帰ってしまって4・5人になっていました。爆弾が落ちてずいぶん経ってから、神社の次男坊がそこに居たんです。原爆の落ちた反対側の山から人が4人ぐらい降りて来ました。夕方暗くなる頃には、山の向こう側は真っ赤になり、畑の横を人が降りてくるのが見えました。浦上の方が爆心地で、長崎駅の方は真っ赤になり、夜どうし燃えていました。それは翌日も燃えていました。爆弾は近くに落ちたと思っていましたが、近くは燃えていなかったので、何処に落ちたか分りませんでした。新型爆弾だとみんな言っていました。
【叔父の死】
ウチの叔父が終戦の頃に、背中いっぱい火傷して、ひょっこり帰ってきました。その火傷はとても臭かったです。朝になると、背中いっぱいに火傷しているところに蛆がわき、箸で摘んで取り、交代で団扇で扇ぎました。ウチの横には川があり、そこで叔父が椅子に座り、ハエが来ない様に交代で背中を扇いでいました。夕方になるとまた小さい蛆虫が出てくるんです。蛆虫が出てくる時が痛いとよく言っていました。寝る時もうつぶせでした。爆心地からどれくらい離れているか分りませんが、長崎兵営に居ました。薬も無いので、大きな桐の葉っぱを乾燥させ粉にして、とうもろこしの粉と、酢か油を練ったものを紙に塗り背中に貼っていました。誰から聞いてきたか分りませんが、そんな薬をつけてました。体が痛いと言いながら、そのまま死んでしまいました。
叔父の妹が危ないというので、毎日家に来ていました。亡くなってから、原爆病院に入院していた叔父の弟が遺体を入れる箱を作っていました。その箱を大八車に乗せ、今の長崎公会堂の前に持って行き、お婆ちゃんと兄弟で焼いていました。誰も泣きませんでした。あちらこちらで空き地があるとみんな火葬していました。火葬場も無かったですから。ウチの叔父を燃やす時も、近くで火葬されていました。学校のグラウンドでも燃やしていて、3人ぐらい見ましたが、燃やすものが無いので、学校の窓枠や椅子を持ってきたり、机はまだ残ってました。椅子や窓枠がほとんど無く、火葬した後は、グラウンドに骨と一緒に窓に付いている戸車が残っていました。骨と戸車は誰が片付けたのか、風で飛んだのか、いつの間にか綺麗になっていました。
一晩中燃え続けていたので、長崎駅、県庁、今の総合銀行の先の通りまで焼けてしまい、母の親達も住んでいましたが焼け出されてしまいました。その後、若宮神社にしばらく居ました。他にも焼け出された人が皆そこに寝泊りし、空き地でご飯を炊いたりしていました。
【戦後の学校生活】
終戦になりましたが、学校には先生が居ませんでした。5年生の時は週1回しか来られなく、みんなで毎日歌を唄ったりしていました。6年の時、中心地の山里小学校から林先生という方が来られました。復員で帰ってきたら以前の教え子が皆死んでしまったと教壇で泣かれました。学校は朝から行く人と、昼から行く人の二部授業でした。1週間で変わるので、昼からの時は、朝は家でプラプラしていました。どのぐらい続いたか分りませんが23年頃だと思います。みんな引き上げてきて、人がいっぱいになってましたから。
校舎も小さく、運動会の時も小学校のグラウンドを借りてました。小学校の時は、6年生だけで校舎がいっぱいになっていました。中学に行くと3校ぐらいからみんな集まって来ていたので、1クラス50人ぐらい居ました。裏で卓球が出来る様な大きな校舎でした。二部授業で午前中行って帰る人、その後昼からの人が行って夕方まで勉強してました。
【その後の体調】
体調は悪かったです。鼻血が止まらなかったり、下痢をしていました。治らなくて2箇所の病院に通っていました。いろいろ病院に行きましたが治りません。色々話を聞き、お灸が良いと言われ、子供ですので熱いのを我慢してやりました。そして針もしました。灸も針も2箇所ぐらい通いましたが、その時は学校も3ヶ月ぐらい休んでいました。病気というか、普段は何ともありませんが、少し動くと体がだるい状態で、ひだ先生がよく言われているブラブラ病じゃないかと思います。10年ほど前は夕方になると体がだるく、汗がダラダラ出ていました。被団協の肥田先生に相談しましたが、分からないと言われました。
【偏見】
結婚では保健所に勤めていた女性とほとんど話が決まっていましたが、そこの所長さんに相談した様で「やめた方が良い」と言われたそうです。話はほとんど決まってましたが、その所長に相談した為、そのまま無くなりました。35歳ぐらいまで1人で居ました。結婚して子供が出来て、原爆二世の手帳を作ろうとしましたが、妻は作らない方が良いと言いました。それは以前私が、結婚の話が出た時に原爆の事で反対されたのを話して知っていましたから。子供も結婚する前でしたし。今は娘の旦那さんも原爆二世というのは知っていますが、今でも手帳は作っていません。
【伝えたいこと】
今の日本はホントに平和で良いと思います。自衛隊が海外に行っていますが、戦争に巻き込まれないようにして貰いたいです。憲法9条を改正と言われていますが、自衛隊の派遣などで、だんだん戦時中みたいになってきますから。被団協でも心配しています。今は実際に火の中をくぐった人も居ないので、また戦争が始まるんじゃないかとみんな心配しています。口では戦争しないと言っていますが、海外に自衛隊が行ったりしてますから。この平和な国がずっと続いてもらいたいです。戦争しないと人口が増えると言う人も居ますが、このまま戦争が無い状態が続いてくれればいいと思います。
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