大越シミエさんは当時23歳。爆心地から2.5キロの水ノ浦町で被爆しました。浦上の上空に紫色の光を見た瞬間、大爆発が起こり、翌日幼子を背負い、助かった家族4人で、52キロの道のりを歩いて避難しました。今も原爆の傷跡から逃れられません。
【被爆前、長崎へは、-】
崎戸という炭鉱があった離島から、結婚して長崎に行きました。夫と夫の母と3人で生活していました。私が嫁いで1年後に子どもができて、4人になりました。夫は17年8月に召集されました。三菱電機㈱長崎製作所に勤めていましたが、子どもができてやめました。その後、海軍監督官事務所に、掃除婦給食の係で臨時入社しました。水ノ浦町は、造船所がある飽ノ浦の隣町で、大波止の向かい側の方です。
【被爆前にも敵機が】
アメリカの戦闘機に乗っている飛行士の顔が、肉眼でも見えました。そのくらい、低空で来ていました。7月末から8月の終戦まで、1日おきに来ていました。友達のお姉さんが大波止へ買い物に行っていて、機銃掃射を受けて即死しました。
【広島への原爆投下を知ったのは】
広島が新しい爆弾で、全滅だと聞きました。まさか3日後に来ると思っていませんでした。福岡県の方がやられるといううわさはありました。
【被爆当日の朝】
当日は天気がとても良かったです。いつも8時には家を出て、勤めに行っていました。海軍監督官事務所は飽ノ浦の造船所地帯にありました。私は理事生のお昼のお弁当の用意をしたり、お掃除をしたりしていました。
【被爆の瞬間】
11時2分でした。階段の踊り場でピカーッと光りました。ちょうど5、6人で食事の支度に行っている時でした。「溶接はすぐ下のあそこだけど、浦上の方で光った」「何だろう」「何の光だろう」と、話しながらまた階段を下りました。踊り場まで来た時、ピシャーッと音がして、その後は意識が全然ありませんでした。紫の溶接の光のようでした。いつもと光る方向が違うねと4、5人の友達と話をしながら階段を下りました。下りる途中で通れないので引き返しました。
その時は夢中で分かりませんでしたが、気が付くと暗い所にいたような気がします。お互いに名前を呼び合いました。すると誰かが「空襲解除だ」と言うので「出よう出よう」と、みんなで出て行きました。熱さとかを感じている間はありませんでした。ただその溶接のような光が見えて、ピシャーと音がしただけです。きのこ雲の様子なんて見る暇はありません。私たちはもう、逃げるのに必死でした。
【被爆直後の避難生活】
9日は野宿し、10日は黒崎の叔母の友達の家に泊めてもらいました。10日の夕方瀬戸に着き、そこで一泊して、11日の朝早く出発して長崎へ歩いて帰りました。それから山を歩いて浦上へ入ると、硫黄のような、人を焼く、焼き場の臭いのような、変な臭いがしました。牛だか馬だか人間だか、全然分からない状態でゴロゴロ転がってました。浦上に入ったら、「自分は生きているけど、こんなことになってしまって」と、叔母と2人で泣きながら通りました。5回6回くらい往復したと思います。泣けて泣けてしょうがありませんでした。
【被爆後の惨状】
みんな哀れでした。真っ黒けに焦がれて亡くなっているし。私の記憶から離れないのは、浦上川に浮いていた5人の親子です。それを叔母と2人で見ながら、泣きながら、「なまんだぶ、なまんだぶ 」と言いながら、ずっと歩きました。目の前に、男の学生さんがかばんを提げたまま、立って焼けていました。こわごわ前方にまわってのぞいて見ると、目の玉が出ていました。目が真っすぐ飛び出ていました。それを絵に描いています。川に浮かんで死んでいた5人親子も描きました。お母さんらしい人が赤ちゃんや他の子をおんぶしたり、手をつないで浮いてました。
叔母と2人で泣きながら見ました。その時にその男子学生とぶつかりそうになりました。叔母は「 こんなの見たことない。目ん玉飛び出るっちゅーけど、こーゆーもんか 」と言いました。それを文章にして出した時、医者でさえそんなに飛び出るはずはないと言いましたが、見たことがない人には分からないと思います。白い布のかばんを提げていました。服も焼けてたでしょうが、ゆっくり見る暇もなく、ただびっくりしました。
【後遺症について】
終戦後、3回ほど流産しました。無理していると思いますが、あの当時のことはなるべく考えないようにしています。あまり振り返りたくもないです。娘の婿から、「子どもが体が弱い」と言われたことがあります。4歳の時に被爆した娘の子どもの男の子の方が、「色が白くて体が弱い」、「原爆を受けていたって、俺知らんやった」と言われたことがあります。それっきり、原爆のことは子どもにも言わないできました。
被爆者とは言いたくなかったです。孫まで体が弱いって言われて、かわいそうだと思ったからです。隠してという訳ではないけれど、なるべく言わないで済むことだったら、と思います。「俺は原爆って聞いてなかった」「お袋さんから聞いてなかった」と言われました。それでも、本当に言いたくなかったです。
【原爆投下への怒り】
とうに通り越しました。アメリカ、米兵隊たちに対して、最初は腹が立ってたまらなかったです。しかし日本人も、よその土地に行って戦争したりと、それはお互いに循環だとあきらめたような気持ちですね。なるだけなら、自分の心をあまり騒がせたくない、と、年とともにそうなってきましたね。80過ぎたので。怒らせたり、怒ったりして、戦争をさせないように、しないようにしたいと思います。悲しいです。本当悲しいです。
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