大下美津さん。当時21歳。原爆が投下された時には、爆心地の北北東に位置する長崎県大村市の海軍病院に勤務していました。病院には、次々と被災者が運び込まれ、地獄のような修羅場だったと語る大下さん。余りの痛みに助けを求めて泣き叫ぶ人たちのため、一生懸命に治療に携わった大下さんには、今でも忘れられない光景があると言います。ご自身の体験を語ることによって、次の世代へ平和の大切さを伝えます。
【被爆前の状況】
大村の海軍病院に赴任して、初めの1か月は内科の結核病棟勤務でした。そして、1か月くらいしてから外科病棟に配置換えになりました。原爆が落ちる前に大変なことが1つありました。大村に東洋一と言われる燃料廠のようなものがあり、8月5日にB29がそこを空爆したのです。そこには、2、3日前に長崎を中心に佐賀、大分、熊本から千名の中高生が動員学徒として来ていました。燃料廠へ入った3日目に爆弾を落とされたわけです。
学徒動員の子供たちや兵隊たちが全員被害に遭い、病院に収容されてきました。軍医が広場で負傷者を分け、私たちは指定された病棟に収容し、治療しました。軍医から「松浦、手術場に入れ」と言われ、それから4日間は食事をする時間もありませんでした。5日から手術室に入っていたため、8月6日に広島に原爆が落ちたことは知りませんでした。8月8日の夕方に、ようやく軍医からもう病室に帰ってもいいと言われましたので、寮に帰り、すぐに休みました。もう、翌朝まで何も知りませんでした。
【被爆時の様子】
9日の朝、身支度をして病棟に行くと、友達から広島に原爆が落ちたことを聞かされました。原爆について話をしていると、上司から書類を事務所へ持っていくように言われました。病棟を出たのが10時53分ころで、兵舎の前に着いたのが11時2分です。その時、鋭くぴかっと光った閃光が目に入りました。兵隊さんが連れて入ってくれたのだと思いますが、気がつくと私は兵舎の防空壕に入っていました。
私は動けない患者さんが気になったので、上司に強く止められましたが、防空壕を飛び出し病室へ走って行きました。病室に行くと、20名くらいの兵隊さんたちが、「元気だったか」と声をかけてくれました。患者さんたちは自分では動けないからすごく怖かっただろうと思います。だから「死ぬ時は一緒に死のうね、だから大丈夫だよ」と声をかけるとみんな喜んでくれました。そして、ふと西の空を見ると、激しくむくむくとわき上がるきのこ雲が見えました。本当にきれいでした。
しばらくすると、警察から長崎の街に多くの負傷者が出ているので救護を頼むという連絡が病院に入りました。救護班が編成され、長崎市に詳しい長崎班の人たちが車で救護に向かいました。留守番の私たちは、たくさん収容ができるようにサンルームのような所に敷布を敷き、すぐ治療ができるように準備して待ちました。夕方に救護班が帰ってくると、負傷者を担架に載せたり、肩を貸すなどして病室へ連れて行きました。
【病棟での惨状】
私は自分の肩を貸して患者さんを連れて行きました。患者さんは男性も女性も全員裸同様の姿でした。下着も着けず、裸足で、髪の毛がじりじりに焼かれて茶色になっていました。前の人を見ると、背中から何かぶら下がっていました。よく見るとその人の背中の皮なのです。子どもも大人も「痛い、痛い、助けて」と泣き叫び、違う場所からは「お母さん」と泣き叫ぶ声が聞こえていました。みんな「水をくれ」と言うのですが、やけどの人に水をあげるとすぐに亡くなるため、水をあげることができません。本当に地獄の修羅場のような惨たんたる光景でした。特に子どもたちの母親を呼ぶ声は今でも耳に残っています。
夜が明けると、昨日治療をした人が亡くなっているのです。置き場所がないため、病室と病室の間の草むらに敷布を敷き、亡くなった人を重ねました。本当の死人の山です。亡くなった人を重ねておくとハエがいっぱい来ます。そして患者さんの治療をしようと思い包帯を解くと、ガーゼの下で何かがぐちゃぐちゃと動いているのです。あっと思い、大きな膿盆を患者さんの体につけ、友達とガーゼの両端をピンセットで持ち、ウジを落とすと膿盆がいっぱいになるのです。1か所から2cmくらいのウジが1升ほど出ました。
男の子が、1人で息を引き取っている光景を見て、お母さんに会いたかったろうなと思いました。あの子供の泣き顔は今でも忘れることができません。「ウジが1升」ということも見た人でないと絶対にわからないでしょう。
【体調不良】
被爆したときは、体がすごくだるく、食欲もありませんでした。しかし、私は自分のことよりも患者さんの方を気にしていたような気がします。当時は、被爆者ということを一切口にできませんでした。国から被爆者だということを言ってはいけないという指示が出ていたように思います。戦後60年くらいたって、私が病院を辞めて被爆者の会に入り、名簿を見た時に初めて一緒に勤務した人が被爆者だったということを知りました。
【平和への思い】
私の体験を聞いていただき、皆さんが少しでも戦争は怖いものだ、原爆はひどいものだ、だからしてはいけないということを分かって欲しいと思い、語りを始めました。国会の偉い方でも、原爆の本当の怖さを知っていないと思います。どうしたら日本が平和になるのか、もっと目を開いて考えていただきたいと思います。とにかく戦争はもうどうでもいいです。何でもない弾を落とすだけで、そのまま人が亡くなってしまうのですから、本当に無残です。
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