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奥城 和海(おくじょう かずみ)
性別 男性 被爆時年齢 8歳
収録年月日 2003年12月10日  収録時年齢 66歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:3.4km) 
被爆場所 長崎市中川町[現:長崎市(中川)] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 国民学校 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

奥城和海さんは、当時8歳。爆心地から3.4キロの中川町で被爆しました。炎の中から助けを求める人々を目に、自らも放射線を浴び、50歳を過ぎる頃から、原爆症による体調不良が目立ってきました。
 
【当時の住居と家族】
中川町と浦上の間に山があり、中川町に近い側に神社がありました。電車で行けば蛍茶屋という終点の少し手前になります。被爆したのは祖父と父、母、私、弟、そして、生まれたばかりの妹です。全員被爆しました。

【被爆の瞬間へ】
外で水遊びをしていた時、飛行機を見ました。空襲警報も鳴っておらず、ひと時の平穏を味わったような雰囲気で皆のんびりとしていました。変だなと思いながら見ていると、雲の中から機体が出てきました。B29だとわかり、あわてて避難しようとした時には間に合いませんでした。じっと見ていたら、落下傘のような白いピンポン球が2つ降りてきました。それが、空中の途中まできてさく裂しました。さく裂した光りはものすごいもので、地球でも爆発したのではないかというような黄色とも白色とも言えない光でした。

私は外にいたので、当然、放射線を浴びました。目がくらんでよく見えませんでしたが、家の中に飛び込みました。それから少し時間をおいて爆風が来ました。家の中は荒れてガラスや瓦が飛び散りました。浦上と中川町の間の山が爆風を防いでくれたと思います。放射線は浴びたと思いますが、爆風はそれだけ弱まったと思います。瓦が吹き飛ぶような状態でも、けがをせず、生き残った要因だと思います。

【何が起こったと】
正直言って訳がわかりません。とにかく、私だけでなく皆が一変した状況に困惑し、今まで和やかだった人の声が悲鳴に変わりました。それは想像を絶するような地獄でした。皆訳がわからず、ぼうぜんとガタガタ震えるだけでした。記憶にあるのは、親が子どもを呼ぶ声や子どもが親を求める声だけです。ただ、ガタガタと震えて訳がわからないというのが正直なところです。

【直後の悲惨な光景】
少し時間が経っても、防空壕から出てはならないと厳しく言われ、父が造船所に勤めていましたので、父を除いた家族で避難していました。夕方になったので、やっと防空壕から出ました。まだ、何が起こったのかぼうぜんとしている状況の中で見た光景は、すごいほこりと煙幕でした。私が遊んでいる時、木にはクマゼミが激しく鳴いていましたが、落ちた瞬間、急に鳴き声が止み、夕立でも降るように雰囲気が暗くなりました。

その状況はそのまま午後も続き、夕方になるほど、町の方から火があがっていました。愛宕町からみると県庁の高い塔から火が吹いているのが見えました。だんだん時間が経つと火の海に変りました。そこから逃れてくる集団が山沿いの方にぞろぞろと幽霊の一団のように歩いていました。それは、男も女も姿がわからないのです。真黒に汚れたのか焼けたのかわかりませんでした。家の横に井戸があり、皆それを求めていました。私は恐くてガタガタと震えて見ていました。
 
今でも忘れられないのは、一人の母親が幼子をおんぶしていましたが、(後ろの子どもは)亡くなっていたのです。それに気づかず、水を手のひらのせては飲ませようとしている姿を見た時、なんとも言いようのない気持ちになりました。その時には、幼子は亡くなっていたのです。皮膚が焼けた人が弱々しい声を出し水を求める集団は幽霊の列車の群のようでした。そういう状況の中で火は三日三晩燃えつづけたようでした。

【家族の被害】
造船所に勤めていた父が心配だと母に話したら、「あそこは一番被害が大きいからもう生きていない」と強く言われました。4日ぶりに父が帰ってきました。交通機関は壊滅だったので、町の方には近づけません。父が帰って来た時の喜びは大きかったです。 

父は兵器工場に勤めていた叔父を探すため、すぐ出かけました。父は浦上の防空壕で意識がもうろうとしている状態の叔父を探しだし、中川町に連れて帰りました。窓際で仕事をしていたらしく、背中一杯にガラスを打ち込まれていました。病院も薬もなく、背中をナイフで切ってガラスを取り出したそうです。しかし、奥までくい込んでおり、叔父も苦しいものですから「このまま死なせてくれ」と叫んでいたそうです。それでも全部、取れないから赤チンをかけるくらいのことしかできなかったそうです。それは大変な苦しみだったと聞いています。叔父は翌々日亡くなりました。
 
【今も忘れられない】
被爆後2週間経ち、町には絶対入ってならないと言われていましたが、子ども心に興味があり、友達と焼けた跡を見に行きました。まだ、くすぶっている道には腹が大きくなり、歯をむき出して焼けた馬が馬車をひいたまま倒れていました。電車もそのままの位置で焼けていました。また、硫黄の臭いがするので近くに行ってみると、トラックに物をたくさん積んでいるのです。トラックには死体を載せ学校の裏山のグランドで油をかけて焼くという作業が行われていたと後で聞き、恐くなりました。私たちは直接遺体を見たわけではありませんが、馬の死体か何かを運んでいるのは見ました。

入ってはならない町の中に入ったりしたので、私も体の中に影響があったと感じます。

【被爆の影響】
50歳を過ぎてから病気が出はじめました。人からは元気だなと言われますが、実は平成5年の時に胃がんで胃を3分の2を取りました。その後の診断で、大体、白血球は4千を超えなければいけないそうですが、3千くらいしかないのです。それから、甲状腺や肝機能の障害が残っています。胃や肝臓の病気になるとやはり、原爆症の病状が出ているなと思います。被爆者は皆そうですが、高齢化するとともに、病弱化し、ますます多くの人々が亡くなると思います。
 
【結婚、子供への不安】
妻も被爆者です。別に被爆者だから一緒になったわけではありません。妻の家族も皆被爆者ですから私自身はそう何も感じません。長崎にいる人は皆被爆者ぐらいに思っていました。心配ないと言ったらうそになります。健康で生まれるかという心配はありました。でも、私たちは被爆者でありながら割と健康そのものだったので、その時はそこまであまり意識は向いていなかったのが現状です。

【被爆者への差別】
まだ、日本には障害者に対する差別は大きいと感じます。私は弟に妹が手帳を申請する時、一緒に申請しないかと言いましたが、弟は家族の偏見の中では取得できないと言いました。被爆の問題は早急になんとかしなければいけない。被爆者もいなくなります。
 
被爆後58年経過しましたが、まだまだ、戦後は終っていないという気持ちがあります。それと同時に私達の運動の展開を大きくしていかなければいけないということを感じています。
 

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