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小田中 幸子(おだなか さちこ)
性別 女性 被爆時年齢 8歳
収録年月日 2011年11月17日  収録時年齢 74歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:4.5km) 
被爆場所 長崎市愛宕町[現:長崎市] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 国民学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

小田中幸子さん、当時8歳。爆心地から約4.5キロの愛宕町で被爆しました。高台の自宅から見た長崎の町は、荒れ狂う海のような炎が上がり、3日間燃え続けました。家の前を通る多くの人に水を分けてあげました。核は絶対に使ってはいけないと、世界中の人に強く訴え続けます。
 
【戦時中の暮らし】
家族は5人で一緒に生活していました。国民学校1年生の頃はそうでもなかったのですが、だんだん戦争が激しくなり、2年生になった途端に、学校に行くと毎日空襲警報が出されるようになりました。学校行ったと思ったらすぐ「家に帰りなさい」と言われ、帰ってくるというような日が毎日のように続いていました。
 
私は毎日、母が作ってくれた救急袋を下げて学校に通っていました。腰から下げる、今でいうセカンドバッグです。中には非常食のいった大豆や、他にも色々な物を母が入れてくれました。夜中に空襲になってもすぐに持って逃げられるように、寝るときはまくら元に救急袋を置いていました。自分の洋服をちゃんと畳んでまくら元に置いて寝るのと同じようにしていました。いつも救急袋を手で触り、それで少し安心していたという記憶があります。
 
防空ごうは、家の前に大通りがあり、その前のがけを掘って作ってありました。すぐに駆け込めるので安心でした。何度かそこに駆け込みました。町内の人たちがみんな入っても大丈夫な大きな防空ごうでした。当時は夜になっても電気をつけてはいけませんでした。電気をつけるのなら黒いふろしきみたいな布で覆うことになっていました。電灯は今のような蛍光灯ではありませんでした。ちょっとでも明かりが漏れていると、町内会の方が見回りに来て、「明かりが漏れているから、明かりを漏らさないようにしてください」と注意されました。だから、夜は本も読めない状態でした。
 
【戦地に行く父】
当時、戦地に行くことはお祝い事でしたが、家族にとってはちょっとさみしい感じでした。父が戦地へ行くときも、たくさんの方が家に来て、ごちそうやお酒でお祝いをしました。その翌日、戦服に着がえた父を、日の丸の旗を持ち、駅までみんなで送りました。「いってらっしゃい」「気をつけてね」と言いながら、「大丈夫かね、生きて帰ってくるのかな」という思いで見送ったのを覚えています。
 
【被爆時の状況】
8月9日は朝から焼けつくような暑さで、本当の真夏日でした。空襲警報が解除になったので、安心して近所のお友達と自宅の裏庭でおままごと遊びをしていました。そこへ「ブーン」と飛行機が飛んできたので、「あれ、あの飛行機は敵かな、味方かな」と思って空を見上げた瞬間、ピカッーと太陽の光よりも稲光よりも鋭い、せん光が光りました。何事かとびっくりして、そのまま慌てて裏庭伝いに家の目の前にあった防空ごうに、姉や弟、お友達と一緒に飛び込みました。防空ごうには近所の人たちも入ってきました。その辺はてんやわんやの大騒ぎになりました。みんな家族を捜したり、呼び合ったりしていました。母も子供の名前を呼びながら駆けつけてきました。防空ごうの中は恐怖で、「今の光は何だったの」という感じでした。それがちょうど午前11時2分です。
 
夕方の4時か5時ぐらいまでは防空ごうにいました。恐怖で外に出られませんでした。外からドカーンという音が聞こえ、それもまた怖くて、夕方まで身を潜めていました。それから恐る恐る外に出て、家の中に入りました。家の中は戸棚という戸棚はありとあらゆるとんでもないところに吹き飛んで、あめ状にくねっと折り曲がり散乱していました。わが家は雨戸ではなく、全体がガラス窓でした。そのガラスがこっぱみじんに壊れ、枠しかありませんでした。枠もぐにゃっと壊れていて、足の踏み場もない状態でした。
 
夕方の6時か7時ぐらいになって、少し落ちついてきました。夏なのでまだ明るかったです。家は高台にあったので下のほうを眺めると、荒れ狂った炎の海のようでした。高い炎が荒れ狂い、町の中は真っ赤でした。その火は3日間ずっと燃え続いていました。おじは長崎駅の次の駅の浦上で宝石店をやっていました。そこから歩いて1里半ぐらいあるわが家まで、ずっと坂を上って帰ってきました。おじは上半身をやけどしており、やけどはひどく、水ぶくれになっていました。やけどした後の皮膚はただれて垂れ下がっていました。「ここつぶしてくれ」とおじが言うので、針の先を消毒して、水ぶくれをつぶし、綿で汁を吸ってあげました。
 
おじは恐怖の余り、庭の一角に倉を作り、引きこもってしまいました。倉を真っ暗にして、閉じこもっていました。たまに家に出てきたりしましたが、しばらくは精神が安定しなかったみたいです。おじは今はもう他界しましたが、結構長生きしました。だけど直腸がんや色々な病気にかかりました。焼け出された人たちや家をなくした人たち、命が助かった人たちは、坂をずっと上って逃げてきました。私の家にも来て「お水をちょうだい」「お水を下さい」とみんなが一斉に水を求めました。みんな衣服は熱で焼けてぼろぼろでした。水をあげると「ありがとう」と言いました。水を求めて川に飛び込んだ人もいました。川には遺体が浮き、材木のように転がっていたと、後々に聞きました。その遺体をトラックに運んで、茂木の海岸で火葬したそうです。その周辺は何とも異様な臭いがずっと漂っていたという話を、後にしばらく落ちついてから聞きました。
 
【原爆投下の翌日】
翌日は、めちゃくちゃになった家の後片づけをしました。壊れたガラスとか、いろいろなものをとりあえず片づけました。蚊が飛んできても「飛行機だ、敵機だ」とおびえるので、5日目ぐらいに茂木にある親戚の家に避難しました。そして「もう大丈夫だ」ということになり、また自分の家に戻りました。当時は色々なデマやうわさがありました。「女性や子どもは連れ去られるからどこかに身を隠したほうがいい」というようなものもあり、それも怖くて茂木の親戚の家に避難しました。
 
【父との再会】
2週間は立入禁止だったのでそれが過ぎた後だったと思います。父が戦地から帰ってくる前に、島原の父方の本家に母が今後のことを相談に行きました。汽車に乗るために道ノ尾駅まで2駅も歩きました。途中、牛とか馬が死んだままの形で、その体内からりんのような青いガスがプシュップシュッと出ていました。何か気味悪い感じでした。昼間でもそういう感じでした。父方の親戚に母が相談すると、結局「戦地に行っている父が帰ってくるまで待て」ということになり、私たちはまた長崎に戻ってきました。往復するのにかなり歩きました。今は道ノ尾駅の方もすごく発展していると聞いていますが、その当時は何もなく、田んぼの中にある駅でした。
 
行く途中、壊れた家とか、吹き飛んで半壊状態の家とかを見ながら歩きました。人間の遺体はきれいに片づけられて、もうありませんでした。動物の死体はそのままで、すごく気味が悪かったです。父はいつになったら帰ってくるのかと思い、私は縁側からよく外の坂を見ていました。するとリュックを背負った父が上ってきました。私は飛び出して行き、父にしがみつきました。父が帰ってきたので安心しました。
 
【健康への不安】
髪の毛がすべて抜けて、女の子で丸坊主だった人も何人かいました。放射線の影響だと思います。ただ私たちの国民学校は原爆の中心地から約4.5キロ離れていたのでそんな人はあまりいませんでした。髪が抜けた子は原爆の中心地の近くにいて、多くの放射線を浴びたのだと思います。誰もが原爆のせいだと分かっていました。原爆の怖さを分かっているので、その子をからかう人は一人もいませんでした。
 
私は国民学校2年生の8歳のときに原爆で被爆しました。4年生のときに鼻血が出て、3カ月ぐらい止まりませんでした。それは非常に苦しくて困りました。3カ月ぐらいたつと自然に鼻血は止まりました。止まった理由はいまだに分かりません。耳鼻科に行ってもどこも悪くないし、なぜなのだろうというような感じでした。その後、色々な病気にかかりました。盲腸をやり、小学校5年生のときには肺門リンパ腺という結核の一歩手前の病気にもなりました。子宮筋腫もやり、11年前には心筋梗塞をやりました。今はもうすっかり元気です。
 
【平和への願い】
原爆で鉄骨の建物があめ状にグニャと溶けて、斜めに倒れたのを見ました。4,000度の熱のすごさは、ちょっと想像がつきます。39度の熱でも体が燃えるように熱いのに、原爆で4,000度の熱を一瞬にして浴びたのですから、即死する人、真っ黒焦げの人、体の3分の2をやけどした人、半分をやけどした人、そういう人がたくさんいました。放射線で髪の毛が抜けてしまった人もいます。長崎で今でも活躍なさっている人で、山下さんという方はやけどのあとがケロイドになっていました。
 
私は4.5キロ離れていたから、おかげでこうして今も無事で、こうやって被爆の体験を語り継ぐことができますが、もう絶対に核を使ってはいけないと思います。核を使えば世界中が滅びてしまいます。「核は絶対に使ってはいけない。戦争は絶対によくない」ということを、世界中の人に訴えたいです。強く、強く呼びかけていきたいと思います。核兵器で広島や長崎は一瞬に数十万の人が被害に遭いました。そんなことがないように「核兵器は絶対に使ってはいけない。戦争は二度とやってはいけない」と強く叫びたい、願いたいです。ノーモア広島、ノーモア長崎。
 

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