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小野 美穂(おの みほ)
性別 女性 被爆時年齢 24歳
収録年月日 2012年10月26日  収録時年齢 91歳 
被爆地 長崎(入市被爆) 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 海軍総隊佐世保鎮守府第21海軍航空廠 総務部 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

小野美穂さん、当時24歳。翌日妹たちを捜すため、大村から長崎に入市し被爆。満員電車の中で座ったまま死んでいる人、お腹が飛び出し黒焦げになった馬、これが地獄だと思いました。原因不明の紫の斑点が顔に現われ、長い間苦しみましたが、被爆した人の役に立ちたいと平和活動に参加しています。核兵器は人類を滅亡させてしまう。絶対に、核兵器は作ってはいけないと語ります。
 
【8月9日】
私は12人兄弟の七女です。一回結婚したのですが、すぐに相手が亡くなったので実家に帰っていました。その時分ですから遊んでもいられないし、大村の航空しょうの試験を受けて、そこに勤めるようになりました。私は窓際の席で、その時分は冷房も何もない時期だから、ちょっと窓を開けていたのか、閉めていたのか記憶はないのですが、左の方が「熱い」と感じました。熱くて、こう見上げたら、ちょうどかぼちゃを割ったみたいな黄色に赤身がかったものが割れるのを見ました。その途端、「なんだろう」と思うと同時に、ものすごい音が「ドカン」としました。するとこっちの方で、「艦砲射撃だ、伏せろ」と言う声が聞こえたので、私はあわてて机の下にもぐりこみました。
 
それからのことはびっくりして、それまで通りに仕事をしたのかどうか記憶がありません。ただ夕方まで職場にいたことは確かです。夕方、寮に帰ると、長崎の方の空は真っ赤になっていました。でも長崎がどうなっているかは分かりませんでした。原爆のことも何も知りませんでした。翌日出勤すると上司の軍人さんが10人ぐらい集まり、「長崎に新型爆弾が落ちて、ほとんどの人が亡くなった。生きている人もみんなけがしている」と話していました。「長崎はもう大変だ。けがをした人たちで大村の海軍病院はいっぱいになっている」と話していました。
 
私も「これは大変だ」と思いました。長崎には妹が4人いました。一人は県庁に勤め、一人は軍の司令部に勤め、一人は三菱の製材工場に勤め、一番下の妹は兵器工場に勤めていました。上の人に許しをもらったか記憶はないんですが私はすぐ職場を飛び出して大村の駅に駆けつけました。そして諫早の駅まで来たら死体の山でした。やけどをして、もう着るものもチリヂリでボロボロになった人がホームにあふれんばかりにたくさんいました。「こりゃあ大変なことになった」と思いました。道ノ尾駅で列車はストップしていたので、仕方なく線路伝いにずっと歩きました。するとあちこちの木の陰や防空ごうの中から首を出した人が、「おかあさん、おかあさん」「兵隊さん、助けて下さい。お水を下さい」と言っていました。私は出勤してそのままで飛び出してきたので、何にもしてあげることができず、後ろ髪を引かれるような思いで歩き続け、兵器工場のところまで来ました。兵器工場でも若い人が大勢、建物の下敷きになって亡くなっていました。
 
私はその人たちの中に妹がいないかとずっと捜しました。妹のもんぺの柄は知っていたので、だいぶ見てまわったのですが見つかりませんでした。それからまた歩き始めて、爆心地の浦上までたどり着くと、親せきのおばさんにばったり会いました。そこでおばさんから妹は4人とも元気で帰って来たことを聞かされました。みんな歩いて帰って来たそうです。危ないところにいた二人の妹は職場を離れていて、運よく助かりました。
 
一番危なかった一番下の妹は、お腹をこわしたから田舎に帰っていて助かりました。三菱の製材工場に勤めていた妹は、会社の上司に怒られて、「もう私、田舎に帰る」と思ったのかどうか知りませんが、工場を出ていて助かりました。その妹は家に帰る途中、長崎から1里、4キロぐらい離れたところで、さしていた傘がポキッと折れたそうです。「爆風で吹き飛ばされた」と言っていました。その話を聞いて安心した私が坂を上ると、そこには子どもが白骨みたいになり、大人が三人真っ黒焦げで男女の区別さえつかないような姿で亡くなっていました。そこは爆心地の近くでした。
 
おばさんと別れてまた歩いていると、浦上の駅前の方で馬車を引っ張ったまま、お腹が飛び出した馬が黒焦げになっているのを見ました。走っているような姿だったので、今でも不思議でしょうがありません。満員電車の中で座ったままで死んでいる人も見ました。本当にこれは大変だと思いました。人はその場で倒れているし、そんなところをずっと歩いたので「これが地獄というのかな」と思いました。もうその時は十里以上歩いたのではないかと思います。そして夜の10時頃に家に着きました。朝8時頃に家を出てから飲まず食わずでした。田舎だったのでまだちょうちんを使う家もありました。長崎の方に行ってまだ帰ってこない自分の子どもを待って、ちょうちんを持っている人に出会ったりしました。
 
【一週間後、職場へ向かう】
一週間したら親せきの船が長崎の方に出ると聞いたので、それに便乗して大村の職場へ行くことにしました。無断で休んだら、悪いからと思って行きました。長崎の港に入った途端にものすごい異常な臭いがしました。あちこちで死体を焼いていたのです。その時の臭いは今までかいだこともない、本当にもうなんて言っていいのかわからないような臭いでした。その時もやはり、「これは本当に地獄だ、この世のもんじゃない」としみじみ思いました。それから大村の航空しょうに着きました。するとそこでは、「すぐ飛行機で飛んでくるから、女の人は危ないので帰れ」と言われて私は帰りました。その後、「残務整理に来てくれ」と言われ、今度は大村の航空しょうの中ではなく、お宮さんを借りて、総務部の人が何人か集まって、残務整理を一か月ぐらいやりました。
 
今でもこれだけ話すだけで、被爆の翌日の長崎の街を歩いて、死体を焼いているところや色々な悲惨な状況を見たことを思い出して、本当にもうなんとも言えないような気持ちになります。頭の中に刻みこまれて、忘れようと思っても忘れることはできません。
 
【亡き姉の夫と再婚】
姉は岡山の空襲で男の子を3人残したまま亡くなりました。その姉の主人が台湾から翌年の3月の末に帰って来てきました。姉の主人との再婚の話がありましたが、3人の子どももいるし、しっかりしたお姑さんがいると聞いていたので、私は「嫌だ」と断っていました。しかし結局、主人から私宛に、本当に心を動かされるような手紙が届き、それで「もう一回死んだつもりになれば何でもできるだろう」と一大決心して再婚しました。そして主人と子ども3人と姑と生活を始めました。後から「私、本当はきたくなかったんだけど、あなたの手紙を見ちゃって、きたんだ」と言うて、「それが手だよ」と主人に言われました。後で主人との笑い話です。
 
【顔に紫の斑点】
寒い時でした。「顔が変だ、おかしい。なんか痛いような、かゆいような感じがする、どうしたんだろう」と思って鏡を見ると、紫の斑点が鼻に一つと顔にこんなにできていてびっくりました。「あら、今日寒かったから、しもやけが出来たんだろう」と思いました。それでしもやけの薬を買ってきて付けたのですが、春が来ても、夏になっても良くなりませんでした。
 
昭和25年の夏休みに田舎の母が孫を連れて来たので、東京駅まで迎えに行きました。すると私を見た母がびっくりして「おまえ、それはピカドンのせいじゃ」と言いました。長崎では原爆のことを「ピカドン」と言っていました。「ピカドンのせいじゃないか。長崎にそんな人がたくさんいる」と母に言われ、私は「へえっ」と思いました。「早く病院に行かなくちゃ、おまえは死んでしまうから」と母が言うので、ちょうどその時、文京区の方に駒込病院があり、その近くの社宅にいたので、その病院に行きました。すると東京の病院では原因が分かりませんでした。GHQが伏せていたらしいのです。色々な検査もしたのですが全然治りませんでした。
 
それで今度は文京区から30年にこっちに越してきました。その頃、子どものために一生懸命に生活していたら、貧血で田端の駅で倒れたことがあります。そんな大変なときにここに引っ越して来ました。顔もこんなになっていました。それでも2、3年はそのまま忙しくしていました。私も一人子どもを産み、4人の子どもがいたので大変でした。今でも当時のことを思うと涙が出てきます。大変な思いをして子どもたちを育てました。末っ子の小さい娘は主人がものすごく甘やかしました。娘は「お前の母さんの顔は紫色だって言われるから、お母さんが学校に来たら嫌だ」と泣きました。でも学校に行かないわけにはいかないし、つらい思いをして過ごしてきました。
 
しばらくすると今度は顔が少しはれてきました。手足にも斑点がたくさん出てきました。日大病院で初めて病名がついて、広汎性なんとかと言われました。それで皮膚と身の間に皮内注射をするのですが、それがもう痛くて痛くて大変でした。原因を調べるために入院すると、原爆と関係があるかもしれないと結論が出ました。そのようにしてずっと長いこと病院に通って、色々な高い注射を打ったりしました。その時分まだ医療費が支給されることを知らなかったです。東京にいたので分かりませんでした。注射があまりにも痛くて、そのままにしていたのですが、それが効いたのか効かなかったのか、少しずつは班点は薄くなっていきました。
 
40年に母が亡くなったので田舎に帰りました。田舎で兄が民生委員をやっていて、初めて被爆者健康手帳のこと知りました。帰ってすぐに都庁に行くと、都庁の人も「今度から医療費もかからなくなりますから、十分に治療してください」と言われました。それから治療費はかからなくなりました。
 
【入市による被爆】
私は何にも知らないで長崎市内に入りました。「お前はばかだな、そんなところに」と言われますが、原子爆弾が怖いものだと思わないし、それより妹たちがどうなっているかが心配で捜しに行ったのです。おかげでこんな目にあい本当に残念です。翌日入市した私の方が一番ひどくて、妹たちはそんなに原爆症というものは出ませんでした。私は大村の方から長崎市内に入りました。妹たちは野母崎の一番端っこで父が色々な海産物の仕事をしていたので、市内からすぐにそこへ逃げたので良かったのです。しかし私は長崎市内に入ったので一番原爆症が出ました。私はひところ肝硬変にもなりかけて、その時分は体がだるかったです。それからずっと病院の方で健康管理をしてもらっています。
 
【活動に参加】
この紫の顔で40年ぐらい苦しみました。だからそのころは人前に出るのが嫌で、出たこともなくて、それで被爆者の集まりがあった時も全然、出ませんでした。全身ケロイドでいっぱいのおじいさんに、「小野さん、出てきてくださいよ」と言われて出るようになりました。いつも着物を着ていたのですが、一回スラックスをはいて、横須賀にみんなが行く時に行ったら、ご近所の人がびっくりして、「小野さん、どうしたんですか。スラックスなんてはいて」と言われました。それからは少しでも被爆した人のお役に立てばと思って、都庁にも行って色々な活動をしました。長崎の被爆で目が見えなくなった人の手を引いてあちこち行きました。国にも行きました。ようやく運動ができるようになりました。
 
【核について思うこと】
本当に核兵器なんていうものは、使えばもう絶対に人類が滅亡してしまうと思います。だから平和なこんな時に原発の事故が起きて、本当に自分のことのように怖さを感じます。福島の人たちが私たちのような目にあわないようにと思っています。私たちが被爆した当時は放射線の怖さなどは全然知りませんでした。しかし今の人は核兵器がいかに怖いか承知しています。だから本当に大変だろうと思います。絶対に核兵器も、原子力も使ったらいけないとしみじみと思います。今また改めて原子力の怖さを感じています。
 

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