国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME証言映像をさがす(検索画面へ)証言映像を選ぶ(検索結果一覧へ)/証言映像を見る

証言映像を見る
川並 順吾(かわなみ じゅんご)
性別 男性 被爆時年齢 11歳
収録年月日 2003年11月4日  収録時年齢 69歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:2.0km) 
被爆場所 長崎市(稲佐町)[現:長崎市] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 朝日国民学校 5年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

川並順吾さんは、当時11歳。 爆心地から2キロの稲佐町で被爆しました。家の下敷きになり、はい出した時には、辺りは地獄の様相だったと言います。宗教家として、原爆の非人道性を説いています。
 
【当時の住居と仕事】
長崎市稲佐町二丁目です。父と二度目の母と私で借家に住んでいました。被爆の10年後、まだ、その頃の様子が残っていないかと被爆地に見に行きました。長崎はすり鉢底のようになっていて、石段の数が17段だったのを覚えていました。それを頼りに行って見ると私が逃げ込んだ防空ごうが残っていました。
 
【その日の朝 被爆の瞬間へ】
夏休みになっていたので、友達が泳ぎに行こうと誘いに来ました。海の近くだったので、毎日泳ぎに行くのが日課でした。10時頃、友達が誘いに来たのですが、その日に限ってお腹がすいていたので、何か食べてから泳ぎに行くから先に行ってと言いました。11時過ぎに、空襲警報のサイレンが連続で鳴ったと同時に光って、家が下へ落ちるような感じがしました。家が1回浮き上がって落ちたのです。
 
私は瓦の下敷きになりました。辺りを足で蹴って探り、家のはりの間に挟まっていることが分かりました。隣から助けてという声が聞こえてきました。自分自身が下敷きになっていたので、ここからはい出ようと必死に足で蹴っているうちに明かりが見えてきました。ようやく屋根の上に自分の体が出るくらいになって辺りを見渡すと、運動会の後のような土煙でした。
 
【その瞬間の記憶】
とにかく鉄工所で鉄を溶接するようなすごい光でした。ピカーッとしたすごい光りでした。音は分かりませんでした。ただその瞬間に深い所に落とされたような気がしました。

【避難と両親の安否】
父が夕方に帰ってきました。帰る途中、周辺が熱くて通れないので、防火用水の水を含ませた冬のオーバーを着ていました。帰ってきましたが、そのまま防空ごうの中の戸板の上に横になって一週間目に亡くなりました。手当ても何もできなかったです。
 
【遺骨と共に不安な夜を】
遺骨を抱えて山側に逃げました。知り合いの家もなく、「泊めてください」と汚れた格好で頼んだものですから、どこからも断られました。頼んで回るうち、田舎のやさしいおばあさんが納屋に泊めてくれました。長崎にアメリカ兵が上陸してくるといううわさが流れたので、防空ごうの中に帰ってきました。電気もなく防空ごうの中には水滴が落ちていました。放射線の水かどうかわかりませんが、井戸水を飲み、かぼちゃなどを拾って食べました。
 
【被爆後の惨状】
家の下敷きになり、瓦にさえぎられた人たちは息が続かないので顔を出していました。死体が燃えるまで20日以上焼いていました。海の近くは死体がゴロゴロしていました。誰も片付ける人がいなかったのですが、20日過ぎた頃から少しずつ親せきの人たちがこの付近に住んでいた人を捜索されていました。目印が全部燃えてしまって位置が分からないのです。道路に燃えくずが重なって駅の方角も分かりませんでした。駅は吹っ飛び、レールはあめのように曲がっていました。そのすさまじさはなかったです。死体の臭いがしました。そして、10年たって行ってみると大きな家が建っていました。私の父の遺体を埋めた所なんて言えませんでした。
 
【自身の負傷と治療】
夏でシャツ1枚でしたので血が吹き出ていました。血だらけになりながら防空壕に駆け込むようにして逃げました。包帯も何も治療用の道具を持っていないので、何でもその血をあててふさぐというような感じでした。

【忘れられない光景】
白黒の水玉模様の洋服を着ている婦人が、白の部分は焼けずに黒の部分だけやけどをしていました。虫眼鏡で実験するのと同じ理屈なのです。黒の部分が皆焼けているのです。白のところはやけどしていないので、白の着物を着ていればあれで、一応さえぎると思いました。

当時は、トラック輸送ではなく、馬車輸送だったので、道路に人間と馬が一緒に蛆がわいていたのは印象的でした。雨が何日も降らなかったから、雨が降ってやっと消えたくらいです。市内は燃えるだけ、燃え尽きたのでしょう。
 
【原爆症への不安】
はい思います。若いうちは、何でも強いと思っていましたが、後遺症が出てきたと感じます。結婚して子どもに障害が出るかもしれないと不安でした。結婚が23歳頃で早かったので、特に心配しました。

【被爆体験を家族へ】
平和でなければとか、戦争は二度としてならないとか、孫に話します。何も食べる物がなかったので、物も大事にしなさいといつも話します。孫たちもいつも真剣に聞いています。だんだん分かってきて、物の大事さや平和に対する意識が高まっているみたいです。息子も私の話を聞いているから学校の教壇に立って被爆した人たちの話をしてくれているみたいです。
 
【宗教家として】
私は、神様の家にいながら両親が亡くなる姿を見て、それも長崎で葬式もできず、それなのに神様は一体おられるのかと祖母に激しく言いました。私は、祖父母は神様を信じているかもしれないけど、自分は絶対神様を信じない、神様のいない世界に行きたいと随分反抗しました。あなたも自分の子どもができたら、神様が少しずつ分かってくると祖母は言っていました。靴の底が減ってしまうと、普通は靴の底をすって歩いているのだろうと言いますが、祖母は見方が違うのです。祖母は、あなたが元気で歩いて靴底が減るのだから、神様のおかげだと言うのです。私もそういうものかと思って少しずつ心を取り戻せました。
 
【原爆投下への怒り】
核そのものは絶対反対。皆が話し合って核がない世界を作らなければだめだと思います。あの威力を知っているのは我々だけですから。あの普通の爆弾が落ちたときの状況は見てきましたけど、核爆弾で戦争したらどうなるかと考えたとき、絶対人類破滅です。日本には何発も要りません。飛行機で落とさなくてもボタン一つで飛んでくるような時代です。あの当時は、B29で持って来て小倉に落とすはずだったのが天候の関係で長崎に落としたということですけど、今度は、そうじゃなくボタンですよ。
 
大国は核を握りながら、小さい国が国を守るために核を作ろうとすると、ダメと言います。これは大きな国が先頭に立ってお手本を示し、そういう人類破滅になるものは、皆お互いにもう作るのは止めましょうと言うのだったら話は分かります。アメリカ、ソビエト、イギリス、自分たちは核を持っていながら、小さな国が核を開発するのはだめだと言うのは矛盾しています。まず、大きな国がお手本を示し、核を放棄するのであれば、これは理想な姿だと思います。

【被爆体験の継承】 
私は今日、本当は死ぬまでこういうあまりいい思い出ではないことを語りたくもなかったし、思い出したくもなかったです。けれど、今語っておかなければ、私も亡くなってしまえば、その現場の悲惨さを語る人がいなくなります。元気なうちに皆さん方にこの大事な話を語り伝えておかなければもうこの次の10年たったら、その時は語れないかもしれません。今日幸い元気でこうして語りができたというのは私にとってもありがたいことです。
 
若い人たちに戦争体験の恐ろしさを是非残しておかなければというような思いがして、今回気持ちよく引き受けさせていただきました。そういう思いは、広島も長崎も実情は同じだろうと思います。
 

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの証言映像をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針