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木村 徳子(きむら とくこ)
性別 女性 被爆時年齢 10歳
収録年月日 2011年10月3日  収録時年齢 76歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:3.6km) 
被爆場所 長崎市新地町[現:長崎市新地町] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 佐古国民学校 4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

木村徳子さん、当時10歳。爆心地から約3.6キロの新地町で被爆しました。スローモーションフィルムを見るような動きで避難してくる人々は、髪が逆立ち、焼けただれた皮膚が垂れ下がり、水を求めていました。元気だった友達や身近な人の突然の死に、次は自分の番かもしれないという不安な思いで十代を過ごしました。核兵器の削減では意味はない、核は一発もあってはならないと訴えます。
 
【被爆前の生活】
私の父は昭和17年頃に召集令状が来て福岡の連隊に入隊しました。その後、家族は母と私と弟と妹、父の妹で叔母の和子でした。女と子どもだけの5人家族で昭和20年の夏を過ごしていました。私は佐古国民学校4年生で8月9日は夏休みでした。父が軍隊に入った後、戦争はだんだんと激しくなっていました。父は家族が町の真ん中に住んでいるのが心配になり、父の友達と4家族で城山町という山合いに4軒長屋のバラック建てました。夏休みの間にとにかく引っ越しをしようと、リヤカーや大八車を引いて、大きな荷物を家から4キロ、5キロぐらいの城山町まで毎日歩いて運んでいました。
 
【8月9日】
8月9日もふだんと何の変わりなく朝が来て、その日も城山の家に引っ越しを続ける予定だったのですが、朝早く、多分6時ぐらいに空襲警報がありました。私たちは近所の防空ごうに入りましたが、何時間たっても何事も起こらず、9時過ぎぐらいには飽きてしまい家に帰りました。その後、私は弟と妹と2階の座敷で紙人形遊びをしていました。叔母は学徒動員で三菱造船に出かけていました。母は1階の台所でお昼の準備をしていました。紙人形で遊んでいたときに、私はかすかに「グーン」という爆音を聞きました。「あらっ」と思った瞬間に母が下から子どもの名前を大きな声で呼び、私は2階の高窓から「ピカっ」と光を見ました。
 
その光はオレンジ色で、周りが白く光っている火の玉でした。何だか分かりませんでしたが、私は2階から1階にまるで落ちるように駆けおりました。すると、「ドーン」という大きな音がして、音と同時に赤れんがの壁が私の背中に倒れてきて下敷きになりました。そのとき私は隣に爆弾が落ちたのだと思いました。私は周りも考えず、すぐに我が家の地下の防空ごうに飛び込みました。真っ暗の防空ごうに、弟と泣いていた妹を抱いた母も入ってきました。防空ごうにはその4人だけがいました。
 
何分かした頃、外から警防団の人がメガホンで、「敵機は去った、今のうちに防空ごうに逃げなさい」と言っている声が聞こえました。それを聞いた私たちは、家が倒れると危ないので外に出ました。時刻は真昼だったと思うのですが、外に出るとまるで夕方のように薄暗かったです。急いで家族全員で近所にある防空ごうに行きました。長崎駅や浦上がある北の方角を見ると、黒い煙が上がっていました。
 
【避難してきた人々】
灰色がかった塊がずんずんずんと私の方にやって来ました。初めは何だかよく分からなかったのですが、近づいて来るとそれはけがをした人々でした。やけどをして顔が真っ赤に膨れ上がった人、髪の毛がぼうぼうに逆立っている人、洋服のそでからべろべろになった皮膚が垂れ下がっている人。そういう人たちが10人以上、塊になって近づいてくるのが見えました。その塊のような人たちが、ぞろっ、ぞろっ、という動き方で、まるでスローモーションのフィルムを見るような感じだったのをよく覚えています。
 
みんなひどいやけどでした。やけどには白い油薬を塗っていました。その油のにおいと、人が焼けただれたにおい、うみのようなどろどろした血のにおいがしました。その人たちは、はうように防空ごうに入ってきました。そして防空ごうに倒れ込むと、「水を下さい、水を下さい」と言いました。私たちは持っている水筒の水をあげました。家に帰ると、壁土やガラスなどが家中に散乱していて中には入れませんでした。転がり落ちた柱時計を見ると11時頃で針が止まっていました。夜になり空は暗くなっていくのですが、北の浦上の方は赤く見え、夜中になるに従いどんどん空が真っ赤になっていきました。「浦上がやられた、長崎駅もやられた」という大人たちの声が聞こえました。私たちは夜明けまでずっとそこにいました。
 
【城山へ】
二、三日たっても、家には入れないし住めないので、母が私と5歳年上の叔母に「城山の家を見てきてほしい」と言いました。長崎駅に行ってみると、そこはもう丸焼けでした。駅から北の方も一面が焼け野原で、目印になるような建物はありませんでした。鉄道の線路はぐにゃぐにゃに曲がっていましたが、私と叔母はとにかく線路に沿って歩きました。そこでは亡くなった方の死体は見ませんでしたが、マッチ箱のような電車が黒焦げになって転がっているのや、当時、町中を歩いていた牛や馬が倒れたまま黒焦げでなっているのを見ました。
 
城山の家に行くためには、浦上川という川を渡らなければいけないのですが、私たちがいつも渡っていた小さな橋は壊れ落ちて渡ることができませんでした。仕方なく川を歩いて渡ることにしました。伯母と2人で手をつないで歩いていると、道に亡くなっている方が見えはじめました。とても怖くて、下を見ずになるべく行く方向だけを見つめて歩きました。そのときに道ではないものを踏んでしまった足の裏の感覚を今でもまだ覚えています。やっとの思いで疎開先の城山の家に着きました。家は焼けてはいなかったのですが、ぺっしゃんこにつぶれていました。一目でここはだめだということが分かりました。
 
先に越してきた家族の方が4人ぐらいいました。川の水で一生懸命にやけどを冷やしていたお姉さんが私たちを見て、「もうここはだめよ。早く帰りなさい、危ないから」と言いました。私達は「ごめんなさい、じゃあ帰ります」と答え、すぐに2人でまた来た同じ道を走って帰りました。今来た道をまた帰る恐ろしさと、いつ空襲警報になるかわからない不安で、2人は何も言わずに走り続けて帰りました。翌日は2人ともぐったりして一日中寝ていました。
 
【身近な人たちの死】
毎日、家の近所の広場に亡くなった方が戸板に乗せられ運ばれてきました。遺体は井げた型に積み上げられ、毎日焼かれました。そのにおいは、ちょうど髪の毛やつめを燃やしたときのような嫌なにおいでした。けがをした人からは、野菜や肉の腐ったようなにおいがしました。よく覚えているのは、自分が子供だったせいか、白いアサガオ模様の浴衣を着た小さな女の子が戸板に乗せられて来て、他の死体と一緒に焼かれたことです。その子の手が戸板からだらりと下がっていたのを覚えています。そのときには、とても悲しかったです。
 
私は当時10歳で、昭和20年から昭和30年までのいわゆる戦後の時代が、ちょうど私の10代と重なっています。仲よしの友達がある日突然、学校を休みました。2日間も休んだので、私はその子の家を訪ねました。するとその子のお母さんが、「こん子はもうだめばい。徳子ちゃん、だめばい」と言いました。布団の中で寝ていた友達は、あんなに元気だったのに顔は土色に変わり、ぐったりしていました。手には水玉模様の斑点が見えました。何も言えず、声だけかけて帰りました。その子は返事もできませんでした。それから3日ぐらいたって友達は亡くなりました。
 
疎開で城山に先に引っ越したおじさんやおばさんなど、私の周りの人たちは昭和20年の暮れまでに全員の方が亡くなりました。知った方が次々に亡くなっていく、友達のように何の前ぶれもなくある日突然に具合が悪くなり死んでしまう。私は、次は自分の番かもしれないと思い、何をやってもずっと楽しくなかった10代でした。もしかすると明日になると私は死んでいるかも知れない。毎日、そんな暗い気持ちで10代を過ごしたことを大人になって思い返します。
 
【被爆後の苦悩】
私は学校を卒業して報道関係の仕事につき、アナウンサーになりました。8月9日が来るたびに特集番組を作るのですが、被爆者の方をお訪ねするのは大変つらかったです。私はなるべく親しく話していただきたいと思い、「私も実は被爆者です」と告げました。しかし、その一言で被爆者の方が大変に気分を悪くされることがありました。被爆者の中には、やけどをしてケロイドの跡がある人や、日々白血病と闘っている人、それから病気ではないけれど仕事につけない人がいました。そういう方たちにマイクを向け「今はどんな生活をなさっていますか?」と質問すると、「あんたみたいにきれいな顔した人には話しとうなか」と言われました。

そのとき私は被爆者の中にも差別とまでは言わないけれど色々な程度で区別があると感じました。被爆でけがをした人のそばに寄ると病気がうつると本気で考えている人も多く、そういう差別はかなりありました。「私は被爆者です。」という顔はしたくなかった、何か申し訳ないような気持ちがありました。被爆者仲間でもそういうことがあり、被爆していない人たちとの間での差別感はとてもありました。
 
私に子どもが生まれるとが分かったときは、本当に悩みました。生まれてくる子どもにもし何かの障害があったとき、私は一体どんな責任が持てるだろう。本当にずっとずっと悩みました。でも決心して子どもを産みました。おかげさまで健康で元気な女の子が生まれました。その後もう一人子どもを産み、娘が2人います。けれど子どもを産むか、おろすかは毎日のように悩みました。新しい命が生まれる喜びより、苦しみのほうが大きかったです。娘が小学校の終わり頃に、「ママ、もしかしたら私は被爆二世?」と聞きました。私はいつか聞かれると覚悟をしていたその言葉に、背中に冷や水を浴びせられたようなショックを受けました。目の前にいる自分以外の人が、私のせいで被爆の不安を感じなければならない。私は「そうよ」とだけ、娘に答えました。
 
【伝えたいこと】
子どもたちにわかってもらいたいのは、核兵器は他の爆弾とは違い、爆発の被害だけでなく、放射線が体の細胞の中に潜んで後遺症が続くことです。核兵器の本当の恐ろしさを分かってもらいたいです。核兵器を「削減する」という言葉がありますが、「削減」では意味がありません。1発の原爆で広島と長崎がやられたのだから、1発もあってはいけない。核廃絶を皆さんに目指してもらいたいと思います。私は核兵器を廃絶させる側の人間でありたいといつも思っています。ということを申し上げています。
 

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