久原一弘さんは、当時17歳。爆心地から3.5キロ、飽之浦の造船所で休憩中に被爆。爆風で吹き飛ばされ負傷、浦上上空は黒煙に包まれ、救護先では、白骨となった遺体を目にしました。
【被爆場所と当時の仕事】
長崎市飽之浦の三菱造船所の1級工員でした。工場では外壁の水漏れ防止をする仕事で、一万トン級のオイルタンカーを作っていました。戦時中ですから衣服は戦闘服に地下たび、戦闘帽という格好で、保安面が悪く毎日けが人が続出していました。工場には強制労働で来ていた方や捕虜の方がおり、これらを海軍兵が警備するため、職場を回っていました。気の許せないような状態でした。
【被爆の瞬間へ】
私は爆心地から3.5キロの地点にいました。ピカッと光った瞬間、電気系統の故障かと思いました。11時過ぎ、私は暑いので、1メートル位の高さの風通しのよい場所で休憩していました。そしたら、ピカッと光りました。ピカッと光ったのでびっくりして立ち上がったらズドーンと爆風と音が来ました。1メートル飛ばされて腕を骨折しました。私は、山側にあった防空ごうに避難しました。そこには、主要な機械を動かす圧搾空気などの動力がありました。海岸に水泳に来ていた子どもはやけどをしながら、防空ごうに飛び込んできました。私もけがをしており、切り傷も多かったです。爆心地から3.5キロ地点ですから、やけどはありませんが、爆風で飛ばされたものがあたってけがをしました。北の方向を見ると、ちょうど、浦上駅付近で、私の学校の校舎のある付近を中心に煙が上がっていました。何が落ちたのかと驚きました。
【何が起こったと】
とにかく何か大きな爆弾が落とされたというのは分かりましたが、種類は一切分かりません。情報が入らないですから、右往左往するだけでした。煙は上がっていましたが、飛行機の通った形跡もわかりません。船を作る工場内で働いていたので、その音で(飛行機の爆音も)まぎれてしまったと思います。翌日、手をけがしていたので、三菱病院に行きましたが、処置はしてもらえませんでした。自分で木片を添えて固定し寮に帰りました。寮に帰ると寮長が「今日は危険なので、食事をとったら寮の裏山に避難するように」と言われました。情報は全く入らなかったですね。今は、原爆というのはわかりますが、当時は何の爆弾だったのかわかりませんでした。
【翌日から救援作業】
翌日、工場長の松本さんの家族がり災されているから救援に向かってくれと命令され、友達と行きました。そこは、爆心地から300メートルの地点だったのですが、上司の命令だったので、友達と一緒に救援に向かいました。稲佐川には性別のわからない死体がたくさん浮いていました。光った瞬間は何万度の高熱なので、髪の毛も皮膚も焼け衣服もありません。そういう人が水を求めて川へ入っていました。その状況を見て悲惨だと思い、大変なものを落としたと驚きました。
【目を覆う光景】
光と同時に何万度という熱が発生し、特にひどかったのは、死体でした。家もほとんど木造なので、焼けると同時に爆風で倒壊し、焼け野原でした。2.5キロ地点では倒壊した家屋の周囲に焼けた死体がありました。動物も死んでいるし、河原には死体が隙間なく浮かんでいました。性別も分からず、ほとんどうつむいた状態で横たわった光景を見るとほんとうにかわいそうでした。川の水が口元に入る状態でも何も言わないのです。
その当時、死臭はあったかもしれませんが、私は死臭を感じませんでした。電車通りを通ると電車があめのようになっていてその中に死体がありました。もうほとんど白骨で、皮膚が焼け残っている人もいました。当時は馬で輸送しており、馬主さんが巻いたゲートルの間からは肉がはみだし、連れていた馬も内臓が破裂して倒れていました。倒れて横たわった様子を見てほんとうにかわいそうだと思いました。ほとんど、死体でした。やけどで皮膚がとけて流れていました。大人の方と子ども2、3人がさまよっているのを見て家族を探していると思いました。
私たちがまず訪れたのは爆心地から500メートル地点にあった学校です。そこで、学生たちを火葬しました。木造の校舎が3棟ありましたが、皆倒壊していました。救援団も来ており、死体を寄せて火葬しました。やはり、地獄です。当時のことを知っていても言葉になりません。
【遺体処理時の気持ち】
私たちは、当時、明治憲法の元で、男子は軍人になるのが目的だと教わりましたので、悲しいとは思いませんでした。かたきをとってやろうと思っていました。
【新型爆弾の影響】
その時、どういう状態だったかを近くの人に聞きました。B29が一機、飛んできてピカッと光り、何かがある程度落ちてきて爆発したそうです。そして電柱に子どもの死体がひっかかっていたそうです。爆発の瞬間、真空状態になり、その後、真空の中に空気が入り、下から竜巻のように巻き上げたのです。だから、子どもの死体が電柱の上にあるのです。真黒い爆発した土や物が巻き上がり、最後は「黒い雨」が降ったのです。
【被爆後の症状】
その時は、非常に情報が少ないので被爆者の体に影響があるかどうかわかりませんでした。私は鼻血が出て、頭の上の血管が膨れていました。小さい時には、こんなことはなかったので、原爆が原因だと思います。
【被爆者への差別】
私が長崎で被爆したことを言うと結婚を断られました。だから、結婚するまで黙っていました。今でも孫がいたらこういう話はしません。
【結婚、子供への差別】
私が21歳、妻が24歳の時に結婚しました。被爆したことは一切言いませんでした。言えば結婚できなかったと思います。兄弟もいたし、病気をすれば、周りは過敏に神経を使うようでした。私が被爆者だと知れたら絶対に結婚できていません。子どもは一人生まれましたが、孫はいません。だから少し心配しています。孫がいれば、絶対にそんなことは言えません。私が聞いたところ、子どもや孫がいるところは、あまり、語りたがらないのです。語ることが上手な方でさえ、断られます。被爆者団体の支部長を務めているので、被爆体験を語ってくれる方の要請があります。けれど、積極的なのは私だけです。私は亡くなった方の思いを伝えようと思っています。
【原爆への怒り 平和への願い】
原爆は人類を殺りくします。この世に生まれるということは、相当の縁がないと生まれません。父親と母親の愛があってこの世に生まれてくるのです。そういう人が皆生命をいただいてこの地球上にいるわけです。それを何の意味もないことで自分たちの権力と名声によって殺りくするというのは非常に残念で耐えません。イラク、イランの状況を見ると、国際的にトップ同士が話し合う方法もあると思います。だから、話合いをして平和に解決した方がいいのです。意地になると原爆を使ったり武器を使ったりすると思います。
私は、夏に雷がピカッと鳴る度に驚いてしまいます。あの光で反応があるのは、あれによって無差別に亡くなったせいだと思います。草も生えないと言われ、その当時は皆そんな気持ちでした。焼け野原になり、動物も無差別に亡くなっています。それは、軍人だけでなく一般市民も巻き込んでの大量殺りくです。広島14万人、長崎7万人です。
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