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久保 寿子(くぼ ひさこ)
性別 女性 被爆時年齢 13歳
収録年月日 2005年11月29日  収録時年齢 74歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:3.1km) 
被爆場所 長崎市大村町[現:長崎市万才町] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 長崎県立長崎高等女学校 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

久保寿子さん、当時13歳。長崎市内の自宅で被爆。治療を受けに行った臨時救護所では、悪臭に耐えられず、治療も受けずに飛び出しました。避難するときに見た人々は、あまりにも無残で、記憶から消えることはありません。その後、結婚して滋賀県に移り住みました。
 

ピカッと光ったのです。なんだろうと思ったけれども、目と耳としっかり押さえて畳の上に伏せました。そうしたら、ドーンという音がしたのです。静かになって、そーっと目を開けると、真っ暗で何も見えませんでした。そのまま、また身を伏せて、しばらくしてからそーっと目を開けると、明るくなっていました。家の中が見えるようになっていました。びっくりしました。壁が、昔の土壁だったので、くの字に曲がっているのです。そして、天井板がぶら下がってきて、戸が全部倒れていました。ガラス戸もあったのですが、それが全部倒れていて、ガラスの破片がそこら中に突き刺さっていました。
 
何が落ちたのだろうと思っていましたが、隣の神社の境内に1トン爆弾が落ちたと思っていました。1トン爆弾というのは、当時、アメリカが持っていた大きな爆弾で、みんな恐れていました。それが落ちたのに違いないと思っていたのです。それから、外に出ようと思っていたら、当時、夜中でもすぐに逃げられるように靴を並べて置いていたのですが、それがどこか飛んでいました。探していると、裏の庭に飛んでいました。外に出ようと思っていると、玄関から門のところまでの通路にたくさんの瓦が落ちていました。外へ出てみると、どの家も戸が飛んでいて表から裏が筒抜けに見えました。その時に、私はガラスの破片でちょっとけがをしました。
 
それで、私の家の隣のナカムラ病院で、薬を塗ってもらおうと思い、そこへ行くと、その病院もメチャクチャな状態でした。お医者さん自身も包帯を巻いて診察できなかったので、臨時救護所になった新興善国民学校へいきました。その国民学校には大勢、やけどをした人が来ていました。職員室や廊下、教室のどの場所もいっぱいでした。みんな、やけどを負っていました。街は燃えていましたが、こんなに大勢の人がやけどをしているのが、私にはとても不思議に感じていました。人間の焼けるにおいは、すごいにおいでした。私は、薬を塗ってもらおうと思いそこにいたのですが、そのにおいに耐えられませんでした。私のけがは血が出ていましたが、ガラスの破片で切っただけなので、薬を塗ってもらわなくてもいいと思いそこを出ました。そして、家に帰る途中で母に出会いました。

【父との再会】
諏訪山という山に諏訪公園があったのですが、母はそこへ弟たちを先に逃がして、自分もそこへ行く途中だと私に言いました。そこで、母と一緒に行きました。その諏訪公園には、たくさんの人が避難していましたが、その中に弟も妹も見当たりませんでした。弟の名前を呼びかけながら、1つずつ防空壕をのぞいて探し回りましたが、いませんでした。いろいろと考えた結果、空襲にあったときに町内の人たちが避難する場所に弟がいるかもしれないと、母が私に言いました。しかし、母はその寺の名前を覚えていませんでした。公園から少し離れた場所に諏訪神社という神社がありました。そこには石段があって、下には市電が通っていました。市電の通りに出て蛍茶屋のほうへ歩きかけたところで、父と出会いました。

【兄妹との再会】
父は、望遠鏡で燃えているようすを見ていました。その頃私たちは、諏訪神社から下りた馬町の近くの信徒の家に、泊めて欲しいと頼んでいました。そこから出てきたところで、父は私たちを見つけたのです。それから3人で蛍茶屋という市電の終点から坂を上がったところを歩いていました。国道を歩いていると、途中で下の妹のカズコからお母様と言う呼び声が聞こえてきました。それから、こちら側の崖の防空壕にいた他の3人にも出会いました。本当に偶然でした。4人とも、防空壕の中にいたら分からなかったわけです。
 
それから、街が燃え、どんどんと火が広がってくるので、風上のほうに行こうという話になり、そちらへ行きました。東山手に信徒の方がいたのでそこへ行き、お願いして泊めてもらいました。次の日に、父が焼け跡を見に私を誘ったので焼け跡に行きました。行く途中で空襲警報が鳴り、敵機襲来という声がして、道端の防空壕に飛び込みました。その防空壕には中年の男の人が寝ていました。その人はやけどを負い、お腹の皮膚がありませんでした。お腹の中が見えていて、そのお腹の中にはウジ虫がうごめいていました。生きていましたが、ハエがいっぱいたかっていました。そのすぐ側には、奥さんが座って、無表情でうちわを使いハエを追っていました。私は、そのウジ虫を見たときに本当に、びっくりしましたね。ショックでした。
 
当時、父は三菱電機という会社で働いていました。その会社は、爆心地から少し離れていたので焼けませんでした。その家族や家をなくした工員さんたちを収容するために、三菱電機が寮を用意したのですが、その寮の寮監長に父、それから母が寮母となりました。それで、家族全員でそこに住んでいいということになり、3日目はそこへ行きました。

【市内の惨状】
1週間後に、爆心地に行きました。教会の人が爆心地に住んでいて、その方の遺骨を探しに行きました。熊手を持って行きました。普通は松山町という電車の停留所があるのですが、1週間後に行ったときには、目印も何もありませんでした。川やコンクリートの橋、崖に掘られた防空壕など、そういうものがあったので、それを頼りに捜し当てて行きました。それで、その熊手で焼け跡の灰を掘りました。おじいさんとおばあさんが2人で住んでいたのですが、1人分だけ探すことができました。
 
あとの1人分は、わかりませんでした。本当に爆心地に住んでいたのですが、きれいに白骨になっていました。火葬され、きれいな白骨に。それで、私たちが行ったときは、1週間あとだったので、人間の死体はきれいに片づけられていて、何もありませんでした。その後、私は放射能障害で病気になりました。すぐにトイレに行きたくなるのですが、何も食べていないので何も出ませんでした。しばらくトイレでしゃがんで、もういいかなと思って部屋に戻り、しばらく経つとまたすぐトイレに行きたくなるのです。家族全員が同じような病気でお腹をやられて寝込んでいました。寮の人も、ほとんど全員が寝込みました。軽い人では1週間ぐらい、重い人でも1カ月ぐらいで、薬は何もありませんでしたが、自然に回復しました。しばらくは元気でした。
 
昭和25年に母が病気になりました。そのとき、3人の医者に診てもらいましたが、何の病気か分かりませんでした。病名は分からずじまいでした。母は3週間ほど寝込んだあとで自然に回復しました。昭和28年に、また母が病気になりました。3回目です。このときも、2人の医者に診てもらいましたが、結局、病名は分かりませんでした。夜になると、すごく苦しみ出していました。昼間は割と元気で、機嫌よく話をしていたのですが、2週間ぐらい寝ていました。しかし急に、病態が急変し、結局亡くなってしまいました。亡くなった時には、まだ何の病気だったのか原因がわかりませんでした。母は昭和28年の3月に亡くなりました。
 
その昭和28年、同じ年の8月に妹のヤスコが入院しました。入院した病院は、大きな病院だったので検査を受けることができました。その結果、放射能により白血球が非常に減る障害だということがわかりました。母が亡くなったのも放射能のせいだったと分かりました。そのとき、初めてわかりました。私もまさか死ぬとは思いもしませんでした。ぼんちと呼ばれていた一番下の弟に、母は、ぼんちさようならと言い亡くなりました。まさか死ぬとは思わなかったので、本当にびっくりしました。医者には、軽い弁膜症と言われていましたのでびっくりしました。
 
【妹の結婚】
被爆者であることを別に隠す必要はないと思っていました。しかし、昭和30何年ごろ妹はある方と恋愛して、2人とも結婚するつもりでいたことでしょう。その相手の方のご両親は妹が被爆者だということで、猛烈に反対しました。それで結局、駄目になりました。妹は泣いていました。ちょっとつらかったです。私のときは、主人が全然気にとめていなかったのですんなり結婚できました。
 
【伝えたいこと】
当時の原爆でも、あれだけの被害があったのです。今の核爆弾は、その当時の原爆の何百倍になるのか、すごい殺傷力を持っています。今度、核爆弾が使われたら地球はおしまいです。だから、絶対に核爆弾を使わなければならないような事態を避けないといけません。アメリカがイラクに行ったのも、私は反対です。そして、絶対に人の命を大事にして、平和を守らなければいけないと思います。自分が戦時中に原爆を受け、終戦後を過ごしてきて、本当に平和が尊いと思っています。戦争が起こらないようにしてほしいと思います。そして、憲法9条を変えることが言われていますが、絶対に9条を守ってほしいです。
 

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