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久保山 栄典(くぼやま よしのり)
性別 男性 被爆時年齢 8歳
収録年月日 2006年10月3日  収録時年齢 69歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:2.0km) 
被爆場所 長崎市立山町[現:長崎市] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

久保山栄典さん、当時8歳。城山国民学校の学生でした。爆心地から2キロ離れた立山町の祖母の家で被爆。飛行機が急上昇する音を聞いた瞬間でした。強烈な黄色の光に包まれ、激しい熱風に襲われました。市内にいた父は爆死。なおも続く敵機の攻撃を避けながら、必死で父親を火葬しました。
 
 
父は若い時、中国上海に床屋の修行に行っていました。戻ってきてから、椅子が13台ある長崎で1番大きな床屋をしていました。父は曲がったことが嫌いで、憲兵に曲がったことを言われると食って掛かる様な人でした。8月の6日か7日に、立山の母方の本家へ避難しました。朝、夜関係なく爆弾を落とす為の飛行機が来ていました。昼は機銃掃射が毎日の様にあり、家から出る事が出来ませんでした。
 
【8月9日】
空襲警報解除のサイレンが鳴ったので自宅の防空壕から出てきました。その瞬間、飛行機が急上昇する音だけが聞こえました。外を見てみると、周りがまっ黄色になっていました。「何かある」と思い、またすぐ防空壕に引っ込んだと同時に熱風が来ました。爆風が「バァ〜」と来て、一瞬家が持ち上がりました。とりあえず床下の防空壕に入り、しばらく時を待っていました。次に出た時は真っ赤になっていました。その日は良い天気で、太陽も出ていましたが、その太陽も真っ赤にギラギラとなっていました。その時は何が起きたか分らず、地球が爆発すると思い、どうなるんだろうとしばらく震えていました。
 
長崎市内の様子を見る為に、裏山の天辺まで登りました。街は赤い油絵の具をバァ〜とぶちまけた様な、全体が真っ赤な雲海に包まれた様でした。建物のほとんどが無く、真っ赤な雲だけでした。報道で広島に新型爆弾が落ちたと聞いていました。広島と同じ爆弾が落ちたかなぁと思いました。みな逃げてきます。助けを求める人、水を求める人、その場で倒れて死ぬ人も。街は火の海で何が起きたのかわからないと母に報告しました。父は何とか山越えなどをして逃げて帰って来てくれると思い、母と2人、防空壕の中で起きて待っていました。
 
父は春ぐらいから松山町の軍事工場に通い始めていました。当日も午前中は仕事で、朝から工場に行っていました。次の日に、4人で父が勤めている方向へ捜しに行きましたが、長崎駅近く、それから先は火の海でした。これ以上行っては駄目だと戻され、その日は諦めて帰りました。次の日は街が燃えてますので道を変え山の方から行きました。山越えをすると、私の家のところに直接降りれるので行きましたが、道には人がゴロゴロ転がり、半分生きている人も結構居ました。足を掴まれたりしましたが、私は4歳の弟の手を引き、母は子供を背負っていましたので助ける事が出来ませんでした。
 
あるところまで行きましたが、だんだん酷くなってきたので、仕方なく坂を戻っていきました。収容所がありましたが、何処の国の人なのか、男か女か、どっちを向いて歩いているか分らない人ばかりでした。シャキッと歩いている人はほとんど居なくて、全身の皮膚が地面に届くぐらい垂れ下がった人がたくさん居ました。少しでも動ける人は「水をくれ」とか、「助けてください」とか、わめく人や泣いてる人、足下には結構倒れてる人も居ました。火傷で目や鼻が平らになり、風船の様に丸くなり、皮も落ちてしまい、凹凸の無い顔になっていました。
 
【4日目、父を探して】
家族4人でまた父を探しに行き、自宅にたどり着きました。父が働いていた所は、自宅から400メートルぐらいだったので探しに行きました。自宅は平になり無くなってました。床屋をしてましたので床の一部分のタイルだけが残っており、レンガの屑だけで跡形もなくなっていました。死んだ人や、道路に転がる牛や馬の死骸を避けながら歩きました。爆心地に近いので生きている人はいません。当時は、道路に牛や馬が沢山居ました。車がほとんど無く交通機関も、物を運ぶのは牛や馬でしたから道路にもたくさん死骸があったんです。
 
400メートルぐらいのところに行くのに2時間近くかかったと思います。着いたのが昼過ぎでしたから。建物は鉄骨でしたがつぶれていました。機械の一部が山の様になっていましたが後はペチャンコです。父と一緒に働いていた人が5、6人でしたが、真っ黒な死体になり転がっていました。父の体の特徴はいくつかありましたが、坊主で、若い時に肋骨を折っていたので、その傷跡があり、そこから腸が全部噴出していました。もう1つは、革靴の底がくっ付いており、メーカーで分ったのかどうかは判りませんが、母が「間違いない」と言っていました。
 
その2つが決め手でした。顔は火傷で3倍よりも大きくなっていました。母に詳しく聞いていませんが、歯などもあったのかもしれません。父の姿を長く見ているのが辛く、早く火葬してやらなければと思い、工場にあった焼焦げた鉄板に、皮が剥け重くなった父の体を乗せました。全部燃えていたので、薪が無く、かなり郊外まで拾いに行きましたが、集めるのに時間がかかりました。敵機来襲もあり、隠れるところも無いので焼け野原になり、地熱の残る焼けた地面に腹ばいになったりしました。薪に火を点け、炭で父の名前を書いた物を置き、その日は帰りました。家に着いたのは夜中でした。
 
翌日は母も弟達もダウンしてましたので、私1人で父の火葬した場所に行き、焼け残ってる部分を焼く為に、また薪を取りに行きました。とにかく頭が硬く、蜂の巣の様になっていて、脳ミソがほとんど燃えていませんでした。鉄の棒で細かく砕き、火を点けその日も帰りました。その時に、人間の頭はこんなに硬い物なのだと、蜂の巣みたいになっているのだと初めて知りました。今思っても、怖いとか悲しいという思いはありませんでした。飛行機の音を常に気にしながら、早く火葬しなければと、とにかく夢中でした。泣いた記憶はほとんどありません。翌日また行き、海軍のお弁当箱に頭と下半身別々に骨を2つに分けてギッシリ詰めました。そのお弁当箱を両脇に抱え、自宅の山手の方にお墓があるので、そこの倒れた石碑の陰に隠し、その日は帰りました。
 
骨を置いて帰る途中に、無条件降伏の玉音放送を聞きました。もう後にも先にも初めてですが、母と2人で泣きました。母が泣くのを見たのは最初で最後でした。父が死に、日本ももう駄目だと思いました。後で聞きましたが、母はその時一家で死ぬことも考えたそうです。
 
【伝えたいこと】
原爆は放射能の半減期が長く何十年、何百年と続きます。日本で悲劇が起きたのだから、同じことが世界で起きない様にしないといけません。どんなに痛く苦しかったかを、若い人達に直に伝えて、マスコミ等が伝えるものでは無く、本当の事を知ってもらいたいです。それを伝えられる人も少なくなってきましたので、若い人には後日でも良いので知りたい事があれば、聞いてほしいと話しています。そうして、どんどんこの話だけは広めていきたいと思っています。
 

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