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倉本 純一(くらもと じゅんいち)
性別 男性 被爆時年齢 12歳
収録年月日 2005年10月15日  収録時年齢 72歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:1.8km) 
被爆場所 長崎市竹ノ久保町[現:長崎市] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 長崎県立瓊浦中学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

倉本純一さん、当時12歳。自宅で朝食をとろうとしている瞬間でした。突然光ったかと思うと体が持ち上がり、畳の下敷きになっていました。避難するときに見た、哀れな姿の人々は、今でも強く印象に残っています。その後、長く後遺症に苦しめられました。
 
 
昭和20年の6月頃から、学校へ行っている間にも空襲があり、学校の防空壕へ潜ったりしていたことがあります。それまでは、空襲警報が鳴って、解除になるという繰り返しで、ほとんど警戒警報発令中でした。それが平常の生活みたいなものだったのです。8日、そういった、夜間の空襲があり、子どもだけは、山に逃げろという事で、横穴式の防空壕へ避難しました。防空壕は、トンネル式になっていて、北側と、南側とで、2つの入口があったのです。普段使う南側の入口まで、20分ぐらいかかります。前日、空襲警報が発令され、兄弟3人で、その防空壕へ、隠れていたのです。
 
朝、空襲警報が解除になってから、おなかがすいたために、家へ戻りました。家へ戻り、しばらくたったころ、母は、6メートルぐらい離れた台所で、雑炊を作っていました。雑炊が出来上がったので、食べようしていたところに、爆音がして、サイレンが鳴り始めました。当時、日本の警戒体制は、あまり正確ではなくて、飛行機を見てから、空襲警報を発令するような、状況だったのです。そして、ドンドンという音が、5、6発聞こえました。山の頂上にある高射砲を撃っていたのです。
 
すると、奇妙な音がしたので、私は、これは爆弾だと直感しました。そのときは兄弟で、はさみ将棋をやっていたときでした。弟たちに「伏せろ」と言って、自分も伏せました。そのときに、閃光が走ったのです。その光は、雷のようでした。目の中に、その光が入ってくるような光でした。膝を折って将棋をしていたので、伏せた状態が、畳に伏せるような格好だったと思います。その状態の中、自分の体が、上へ上がっていくのです。天井の一番高いところまで、上がったような気がします。上がったなと思ったら、今度は下へ、どんどん、落ちてくるのです。自分の体が落下するのがわかったのです。
 
ところが、普通だと、高いところから落とされると、そうとうのショックを感じると思いますが、落ちたときに、全然衝撃を感じなかったのです。ただ、上へ持ち上げられて、下へ落ちてくるあいだに、体中に物が当たる感覚があっただけです。下にたたき落とされたところへ、吹き飛ばされた畳が、後から落ちてきたんです。その畳が、守るように屋根を作ってくれていました。たまたま、畳が守ってくれて、目を開けると、太陽の光が見えたので、外に出てみました。裸足で色々なものを踏みつけながらです。
 
次男の名前を呼びましたが、応答がありません。三男の名前を呼ぶと、5メーターぐらい飛ばされた、お風呂場のところから、出てきたのです。弟を待たせて、母を呼ぶと、声がします。台所のほうに、探しに行くと母は外にいたのです。外にいた母は、勝手口を出たところで、家の壁の下敷きになっていました。母も伏せたと思いますが、壁が背中に乗ってしまいました。今は石膏ボードで、非常に軽い壁材を使っていますが、当時は、重い土壁なんです。その土壁が、ベターンと横に、倒れているわけです。手と足、頭が少し見えている母を、引きずり出すため、壁を持ち上げて救出しました。
 
母親と、三男の無事は確認しましたが、次男が見当たりません。私の家はまだ、火が出ていなかったのですが、他の家から、だんだんと火が近くなってきます。ぐずぐずしていると、その火に巻かれてしまうので、防空壕に避難しました。
 
【避難の途中で】
避難する途中、皮膚の剥がれた人や、腹が破裂した人など、色々な人に会いました。50歳ぐらいの男の人は、人相がわからなくなっていました。というのは、外側の皮膚がないのです。あるにはあるのですが、糸みたいになって、全部垂れ下がっているのです。垂れ下がってしまったところは、中の肉が膨張して、水ぶくれになっています。ですから、目を開けているのですが、細くなって見えないのです。顔は、2倍ぐらいの大きさに膨張しています。腕は丸太のようになり、足もそうでしたね。ですが、意識はあったようです。
 
声をかけると「水はないですか」と言われました。しかし、私たちは、なにも持っていません。とにかく何か飲みたいと言うので、吹き飛ばされたカボチャを細かく割って食べさせました。食べようとしたのですが、もう噛めないのです。ほかの人にも「水を持っていませんか」と尋ねていましたが、誰も持ち合わせていません。おそらくあの人は、夕方ごろまでには絶命したのではないかと思います。それが一番、今でも、印象に残っていますね。
 
それから後は、連合軍の捕虜収容所から、強制労働で働いていた捕虜の人が逃げて、無秩序な状態が広がっていました。収容所の捕虜も逃げる事ができたのでしょうね。そこには、オランダの軍人もいました。その人は、持っていた水筒に水を汲み、小さな女の子に飲ませてあげていました。やっぱり、同じ人間なんですね。戦時中は捕虜という名が付くだけで、罪人だ、敵国人だと思っていました。しかし、外国の兵隊さんが、日本人の女の子に、水を飲ませてくれるその姿に、原爆の悲惨さを忘れさせてくれました。人間愛を感じ、その光景が今も心に残っています。
 
【その後の体調】
布団もない、毛布もないところで、寝起きしていたので、10日あたりから、下痢が続きました。何も食べていないのに下痢をするんです。胸がムカムカして、元気な人が拾ってきて、わけてもらった野菜を食べられません。12日ぐらいに、おにぎりが配られてきたのを覚えています。しかし、それも食べれません。何もしたくないのです。空腹にならず、胸がムカムカし、3日目あたりから嘔吐が続きました。1週間ぐらいは、何も食べなかったです。
 
勤務先で被爆した父が、9日の夜、帰ってきました。父は、次の日職場へ行かず、自宅の焼跡を探しに行きました。11日の朝、父が自宅を探しているときに、弟の遺体を見つけました。いつまでも防空壕で生活をするわけにいかないということで、父の知り合いを訪ねて、列車で疎開先へ避難しました。

【伝えたいこと】 
もう戦争が、地球上で行われるのは、絶対やめてほしいと思います。現実には、様々な場所で、小さな戦争がおこっています。今は小さな戦争で済んでいるかもしれませんが、やり方を間違えると、大きな戦争へと広がるんじゃないか、という思いがあります。どんな小さな紛争でも、してはいけないと思います。原爆投下については、戦争を終結させた兵器だと、言う人もいます。それは、そうだったかもわからないですが、使い方を間違った。科学者だけに限らず人間は、未知の世界を解明していく意欲があります。核開発も、そういう趣旨から始まったのでしょうが、使い方を間違ってはいけないのです。アメリカが、なぜ核兵器を使わなければいけなかったのか、いつも疑問に残ります。
 

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