木場耕平さん、爆心地から約5キロ離れた橘湾の海岸で、ざんごう掘りをしていました。火災のため長崎市内には入れず、方々から聞こえてくる助けを呼ぶ泣き声に、何もできず震えながら夜を明かしました。爆心地の近くの自宅で被爆した母と妹は、行方不明のままです。復しゅうの連鎖は断ち切るべきだ、核兵器がなくなること、それだけが願いだと語ります。
【8月9日の惨状】
当時、私は旧制中学の1年生でした。原爆投下の前日は警戒警報が鳴り、1キロほど離れた学校へ行き、夜遅く家に帰りました。その頃は作業と学校の授業を1日おきに交代で毎日を過ごしていました。8月9日はちょうど作業の日でした。私は母に「今日は作業の日だけど、眠いから休みたい」と言うと、「ずる休みはだめだ」と言われ、握り飯の弁当を持って家を出ました。
当日、私は長崎市内中心地から5キロほど離れた橘湾の海岸線に陣地構築のために行き、ざんごうを掘っていました。11時2分、ちょうど原爆が落ちたときは、突然マグネシウムをたいたような光が来たのでみんな伏せました。しばらくして「ドーン」という音がしました。しかし誰もけがをしていません。「近くに爆弾が落ちたのかなあ」と話していると、長崎の方からきのこ雲が上がってきました。昼間で明るかったのが急に暗くなり、灰や焼けた紙切れが空から降ってきました。作業を中止して山を下りました。
県庁の向かいに崇福寺という有名なお寺があります。私たちは支那寺と呼んでいたその寺まで来たとき、1.5キロか2キロぐらい先が燃えるに任せた状態でした。誰も火を消す人はいませんでした。見ている人はみんな茫然として、その火を消そうという気になれなかったようです。それで市内の方にはもう進めないと分かり、今度は山すそを通って外側から自分の家へ帰ろうと思いました。すると多くの傷ついた人たちが幽霊みたいな格好でどんどん山からおりて来ました。「これはひどい、何事が起きたのかな」と思いました。男か女か分からない格好で、ぼろを着ているようでした。
360メートルぐらいの山をやっと越え、長崎市内が一望できるところへ出ました。すり鉢状になっている長崎市内は全部焼けていました。長崎大学医学部の大きな煙突があるところまで来るともう先に進めなくて、その日はそこで野宿をしました。夜になると方々から「助けてくれ」という泣き声が聞こえましたが、私は何もできず、震えながら夜を明かしました。
【兄との再会】
約1.5キロの北の方に、兄が学徒動員で行っている兵器製作所がありました。そちらの方を見ると兵器製作所は燃えていて、時々薬品が「ドーン、ドーン」と、天の方に花火みたいに上がっていました。兄は兵器製作所で亡くなったと思いました。14歳だった兄は兵器製作所で海軍の魚雷を作っていました。原爆が落ちたとき、兄は魚雷の林立している工場内で作業していました。爆発のとき、兄は魚雷と作業台の間に伏せて、背中にちょっとけがをしただけで奇跡的に助かりました。その後、黒い雨が降ってきたそうです。
私は兄と被爆後2日目に道ノ尾駅のそばにある親戚の旅館で会いました。戦災に遭ったらその旅館で落ち合う約束を二人でしていたのです。野宿した夜は一晩中列車の汽笛が鳴っていました。後で聞くと、けが人を運ぶ救援列車の汽笛でした。被爆後、列車は道ノ尾駅までしか来ず、長崎駅や浦上駅がある長崎市内には入れなかったそうです。救援列車はまだ枕木が燃えているところへ夜に5回入り、けが人を3,500人、諫早や大村、佐世保や佐賀へ運んで救出しました。何も知らない私は一晩中鳴り止まない汽笛を「うるさいな」と思っていました。汽笛の音は決死的な働きで有名な救援列車のものだったのです。
【爆心地近くの自宅へ】
私は家のことや家族のことが気になり、夜が明け切らないうちに起きて山から下りました。途中、すり鉢状の長崎市内で人間の体のリンがいさり火みたいに燃えていました。傷ついてさっきまで泣いていた人が、急に静かになり死んでいく。そんな場面に何度もあいながら、どうにかやっと爆心地の近くの自宅までたどり着きました。私が住んでいた町は長崎市の中心で、原爆投下地点と同じ町です。自宅は原爆投下中心地から約100メートルのところだったので、たどり着いたときには家は瓦れきの山でした。
私の家には室内に井戸がありました。その井戸が見えたのですぐに自分の家が分かりました。隣の家は仕立て屋さんでしたが、玄関のところに白骨が3体ありました。裏は草野さんというお宅でした。おじさんかおばさんか分かりませんが、大人の胴体が黒く焼けた死体がありました。わが家は見つかりましたが、何もありませんでした。島田さんという近所のおばさんに会うと、「ああ、あなたは助かってよかったねえ、生きていたの」と言われました。
おばさんはジャガイモを買い出しに行って、家には4人の子どもが残っていたのですが、子どもがいないと言って捜していました。そこに顔半分にけがをした勤労動員の腕章を巻いた女学生が通りかかり、水を見て「水を飲ませてください」と言いました。「どうぞ」と言うと、水をガッと飲んだ途端にパッと吐き、うつ伏せに倒れました。おばさんは子どものことが、私は家族のことが心配で、人の心配どころではありませんでした。何であのときあの人の名前を聞き、どこまで帰るのか聞いてあげなかったのかと、今も時々思います。
私は家族を捜すために1キロほど離れた学校へ行ってみました。校舎の外観は残っていましたが中は全て燃えていました。校舎の陰に200人ぐらいの人が横たわっていました。家族はいないか、知った人はいないか、知った先生はいないかと捜しましたが、誰もいませんでした。何の手がかりもなく、「どうしようもないな」と思い、とぼとぼと歩いていたら、B29が飛んで来ました。逃げる人もいましたが、私は「もうどこで死んでもいいや」という気持ちでB29を見上げていました。
すると上空から、きらきらきらきら光るガラスみたいな物が落ちてきました。それは、はがきぐらいの大きさの宣伝ビラでした。見ると、「日本国民に告ぐ。この爆弾は原子爆弾といって1発をもってB29の爆弾の2,000発分の破壊力がある。だから都会からはすぐ退去しろ」「天皇陛下に申し出て、この戦争をすぐやめるように言うことを願う」と、書いてありました。私は原子爆弾の「原子」という言葉は、「アトム」という意味ですが、その当時は石器時代の「原始」しか知りませんでした。「原子」という言葉と、印刷された紙がきれいだった2つのことが非常に印象に残っています。
夜になって、おにぎりの配給がありました。近隣の町からおにぎりを満載したトラックがきて、歩いている人みんなに配られたのです。私は前日の夜とその日の朝と昼に何も食べていませんでした。おなかが減ってどうしようもなくて、そのおにぎりを食べようとしたのですが、食べられませんでした。理由は臭いでした。焼け焦げた死体でも体が残っているのはいいですが、ぼろぎれみたいになって溝にたたきつけられている死体は、夏の日に照らされてものすごい臭いがしました。私はおにぎりを一口だけ食べて、あとは食べられませんでした。
【母と妹を捜して】
私は母を捜しに収容所のような所は全部行きました。桶屋町の親戚の家の近くにあった新興善(しんこうぜん)国民学校が長崎一の大きな収容所でした。そこは1階から3階まで窓枠は全て壊れていましたが、床だけは残っていました。その床にけが人が15人ずつ頭を並べて寝ていました。上から下の階まで、けが人で満杯でした。そこに寝ているけが人が亡くなると、すっと兵隊の人が来て担架に乗せて校庭へ運びます。
校庭では死体を井げたに積んでガソリンをかけて燃やしました。亡くなってすぐの生身の人間は、焼けると身体が動きました。それは昼間に行われていました。まるで地獄極楽の絵図を見ているようでした。収容所をいくら捜しても、とうとう母は見つかりませんでした。そこで家の焼け跡を掘ってもらうと、母の洋服の燃えかすが出てきました。私はそれをお骨がわりに墓に入れました。
【原爆による健康被害】
被爆後、私は友達に会うと、「ああ、よかったね、元気で。ああ、よかったな」と話していたのですが、そんな友達も8月の末までには、ばたばたと亡くなりました。私はずっと歯茎から血が出ていました。それから草負けと言い、草刈りでちょっとした傷をつくると、そこがものすごくはれました。白血球が少ないからです。白血球は大体6,000から7,000個あるのが普通なのですが、私は3,000個ちょっとでした。だから傷ができるとすぐに化膿しました。医者は、「木場さんは白血球が3,500個ぐらいだから、そういう体質になっているのですね」と言いました。
この前、広島の医師の肥田舜太郎先生が、「放射線に勝つのは正しい生活をすることが一番いい。これがだめ、あれがだめはストレスになるので、ただ毎日規則正しい生活をすれば、人間の細胞は1週間で変わる」「細胞が悪くなっていくのががんだから、細胞が変わればそれに打ち勝つことはできる」と言いました。毎日の生活を規則正しくすることで、細胞ががん化するのを防ぐということです。
【原子爆弾の使用】
長崎に落ちたのはプルトニウム爆弾です。原爆投下前の7月16日にニューメキシコで実験をしたそうです。鉄塔の上でプルトニウム爆弾を破裂させると鉄塔が溶けたそうです。この爆弾はあまりにも破壊力が大きいので、当時のアメリカの科学者は大統領に連名で「これは人類の上に落としてはいけない。もし落とすなら予告するか、無人島に落とすべきだ」と提案しました。しかしアメリカは、もう20億ドル、今で言うと4兆5,000億円の費用を使い、3年で20万人を動員してつくった爆弾だから、何とか人類の上に落として実験をしたいと思いました。
そして8月6日広島に、3日後の9日長崎に原爆を投下しました。その後トルーマン大統領以降アメリカの歴代の大統領は誰一人として原爆投下を「悪かった」と言いません。「原爆投下は戦争を早く終結して多くの人の命を救った」という世論がアメリカに形成されています。こういう非人道的な兵器を使ったアメリカが今まで全く謝らない。謝るどころか、「戦争が早く終わったからよかった」と言っています。被爆者として、私はこのことが一番悔しくてしようがないです。
【平和への願い】
この前、日本の高校生に私の被爆体験を色々話すと、「あなたはそういう仕打ちを受けて復しゅうする気にならないのか」と質問されました。「日本人の頭の上に原爆を投下されたのだから、今度はアメリカ人の頭の上に原爆を投下したい」私にはそういう思いは毛頭ありません。復しゅうの連鎖は断ち切るべきだと思います。そして、「本当に核兵器がなくなるようにしてもらいたい。それだけが願いです」と、高校生に話しました。
非核三原則は空洞化されていると言いますが、私は核廃絶と非核三原則を守ってほしいと思います。時々「寝言を言っている」と言われます。寝言と言われてもいいのです。私たちは叫び続けなければいけないのです。
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