木幡吉輝さん、当時16歳。中学校は諫早中学校の4年生でした。戦況が厳しくなる中、授業はなく、工場で発動機の修理を手伝う毎日でした。長崎市上空に昇る不気味な黒い雲を、遠く離れた山から目にしました。その後、数えきれないほどの死体を運ぶことになったのです。
中学校は諫早の中学校で、下宿して生活していました。中学1年生のときに、母が亡くなりました。父の弟が満州にいたわけですが、その人にお世話になって教育費を送ってもらって、どうにか中学校は卒業しました。中学4年生のとき原爆に遭いました。その当時は、小学校5、6年生になると奉仕作業といって、農家に手伝いに行ったりしていました。働き手は兵隊に行って、いないものですから。中学1年も同じです。1年生くらいまではどうにか勉強していましたが、昭和17年ですから。昭和18年の頃になると、勉強なんかせずに学徒動員になりました。工場とか。私たちは大村の海軍航空廠が空襲でやられたので、発動機の修理部だけが諫早に疎開してきて、山に工場を作ってそこで修理をしていました。中学の3年生、4年生の頃です。そんな仕事をしていましたが、昭和20年になると、修理する発動機が来ないのです。だから松根油の原料になる松の根を掘りに行きました。松の根を掘っているときに、原爆に遭いました。
11時何分かだったから、8月の汗まみれになっての松の根掘りですから、重労働だったんです。少し休んでましたが、その音がひどくて、大爆発の音です。そばに落っこちたと思い、驚いて飛び起きました。ちょっと休んで横になって転がっていたのです。今度は長崎の方向に、黒い煙がもうもうと立ち上がっていました。それで驚いて、私たちはトラック2台で、60名ほど山の中で働いていましたが、長崎に駆けつけました。
【惨状】
途中、被害にあった人たちが、血まみれで皮膚は垂れ下がり、真っ裸に近いような格好ではだしで、諫早の方に泣き叫びながら逃げてくるのです。我々はトラックの上でどうしようもないし、目的地は浦上だったのでそれを眺めながら行きましたがこれは普通の爆弾でないと思い、驚いて行きました。浦上地区に入ったところは本当に家も何も倒れてしまい、人も何も、もう焼け野原でした。そこに行って救護活動に入りました。人の顔から何から、丸裸同然だったので驚いてしまい、どうしてよいのか分からず、身震いしながら救護をしました。
8月の真夏ですから、死んだ人の目元にハエがブンブンたかって、よく見ると今度はたくさんのウジがついて、うようよと動いてるのです。ハエは卵を産むのかと思っていたら、ハエはウジを産むのです。そばには生きていて動けなくなっている人もいますが、その傷口にも這い回っていました。赤チンという薬があって、顔に塗るのですが、顔全体が傷だらけでしょ。震えながら塗って。みるみるうちに顔が真っ赤になっていくのです。赤チンですから。隣では軍医が、長崎医大も真っ先にやられ、もう麻酔がなかったのでしょう。若い女性の脇の下を、麻酔せずにハサミでバリバリ切っていました。「やめてください、やめてください」と泣き叫ぶ声が一番ショックでした。今でも忘れることができません。
【忘れられないこと】
震えて仕事をしていたのですが、兵隊に「何震えてるんだ」と気合をかけられました。「今度はお前たちは死体運びだ」と言われ、2人で担架で運ぶのです。それがもう遠くてね、山の中でしかも坂道なのです。長崎は山ですからまあ何十回運んだか、どのようにして運んだか、全然記憶にありません。軍手も何も無いので、2人で生の手で担架に載せました。山の頂上には穴を掘る人がおりました。私たちは運ぶ係です。帰りは怖くて走っていって、またどうせ運ぶことは分かっているのだけど、もう気持ち悪くて担架を持ちながら友達と、駆け下った記憶があります。それを何十回とやりました。
夜は野宿でした。何の建物もないところで、どんなところで野宿したか分からないですけどあの頃は食べ物も不足していたので、真っ白いご飯などは食べたことは無かったです。にぎり飯をもらっても、原爆の様子が頭に浮かんできて、全然食べることができないのです。夜になると山ですから、蚊は生きているのです、蚊の大群で全然眠ることができなかったです。原爆のことを思い出し、その形相を思い出し、蚊にも悩まされ、一睡もできない状態が3日間です。3日間泊まってやりました。野宿をしました。中学校に帰っても、諫早の小学校、中学校は全て死体の安置所になっていました。死んだ人をどんどん講堂へ集めていました。学校に帰ってもやっぱりそういう仕事をしました。石灰みたいなものを死体に振りかけて、真っ白になるように振りかけたりしました。終戦まではね、8月9日ですから、8月15日になるまではそんな仕事をしてました。
8月15日が終戦でした。こう言っては何ですが、本当に戦争が終わってよかったという、ホッとした気持ちになりました。原爆の長崎の惨状を見てきたせいもあると思いますが、負けたにしても戦争が終わってよかったというのが一番心に残っています。
【被爆者に対する認識】
その年に髪が抜けてきましたが、それでも何も世の中は騒いでいないのか、原爆のためだと自分も思っていたのでしょうけれど周りの人も何にも関心が無かったです。いつの間にかまたすぐ黒い髪の毛が生えてはきましたが、髪が抜けたことには鏡を見るたびに驚きました。急になったのか、自然となったのかでも若者だったので、気になりました。どうなるのだろうかと。また髪の毛が生えてくるとは思わなかったので。
【伝えたいこと】
毎年8月15日に終戦記念日が来ますが、私が校長先生に、「原爆の体験談を話していいですか」と聞くと、駄目だと断られたのが、まだ昭和50年代です。教え子や若者を絶対に戦争へ行かせてはならない、それだけは原爆の状態を見てからは、それが私の信念です。そのために先生になったつもりです。教え子を若者を自分たちの二の舞にさせたくないということは頭にこびりついていました。今まで話す機会がなかっただけであって、自分が自主的に話してみたいと思いました。戦争イコール死ぬことですから、絶対にあってはならないことです。私たちはどんどん年を取り、今から生まれてくる人、若い人が今後どうなっていくかと思うと教育はね、本当に一生懸命にしてきたつもりです。政治が絡んできますので、本当にどうしたらいいかと思って、悩む心境です。絶対に戦争はあってはならぬ、という信念だけは、持ち続けていきたいです。
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