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小柳 恵美子(こやなぎ えみこ)
性別 女性 被爆時年齢 14歳
収録年月日 2003年10月30日  収録時年齢 72歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:2.8km) 
被爆場所 長崎市八百屋町[現:長崎市] 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 長崎地方裁判所 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

小柳恵美子さんは、当時14歳。爆心地から2.8キロの八百屋町で被爆しました。原爆の影響で、子どもや孫に障害があり、今も放射線の恐怖で、不安な日々を訴えています。
 
【被爆前の家族と仕事】 
母と姉と私と妹2人と弟、みんな被爆者です。姉たちは造船所に勤めていました。夏休みだったので、弟と妹は家にいました。私は勤めていました。隣が裁判所長の官舎で向かいに勝山国民学校がありました。昔は控訴院が勝山国民学校の裏にあったのですが、福岡へ移転したので、裁判所長さんもそちらの官舎へ移る予定でした。私は裁判所で庶務課にいました。学校を卒業して、入ったばかりで、給仕をしたり、手紙の宛名書きをしていました。
 
【その日の朝 被爆の瞬間へ】
青空でいい天気でした。母は買い物に行っていて、原爆にあいましたが、姉は三菱造船所に勤めており、その時は友達と2人で新型爆弾の記事を読んでいたそうです。飛行機の音がして、ピカーッと光ったので、ビックリして机の下に潜ったそうです。飛行機の音がした時には、B29を知らず、日本の飛行機かと思って空を見上げて探していたら、光ったそうです。それがB29だったのです。
 
【原爆と知ったのは】
新型爆弾が広島に落ちたという記事を友達と読んでいたのですが、実際に長崎に落ちた時はその爆弾とは分からなかったそうです。とにかく、ひどかったので、急いで逃げて家に帰ってきました。

【被爆直後の惨状】
光で真っ白になりました。何も見えないのです。それで、焼夷弾が前に落ちたと思って友達と玄関の中に入ったのです。2人でしゃがんでいたら30秒も経たないうちに爆風が来て、大きな所長官舎の1階、2階の天井が抜け青空天井になりました。ガラスがこっぱ微塵に割れて、男の人はランニング1枚だったので頭とか手とかところ構わず刺さって血だらけになりました。中に入ると皆血だらけだったので、早く救護所となっている勝山国民学校へ連れて行かなければいけないと思いました。外は、がれきの山となっており、電柱が倒れているし、電線は垂れ下がっていました。とにかく電線に触らないように連れて行きました。あちこちからけがした人がたくさん集まっていました。まさかこんな事態になると思わないですから、救護所も手当てする人が少ないのです。とにかくけが人の行列ですね。叫び声はするし、泣き声はするし、もうそのけが人を見ただけで生き地獄だと思いました。

【家族と避難】
けが人を救護所へ連れて行った後、弟の様子が気になって家へ帰りました。すると、弟は裸のまま一生懸命逃げようと支度をしていたので、私の上着を着せて共同防空壕へ早く逃げようと言いました。避難する途中、性別もわからない素裸の人がいました。爆風で飛ばされ、山を越えて逃げて来られたと思われるその人は石に腰掛けていました。その人は、「水をください」と言っているのですが、誰一人聞いておらず、やはり自分の身が大事だから、人のことを構っていられないのです。私もまだ、15歳だったので、とにかく早く逃げようと思っていました。たぶん水筒を持っていてもあげていないと思います。逃げるので精一杯でした。その人は目と歯だけが白くて髪の毛も全然ないし、洋服もはがれてしまってほんと素裸だったのです。それでもかわいそうにと思いながら避難所に逃げました。

【被爆後の記憶】 
長崎が燃える煙と原爆の雲がどんどん広がっていくので、長崎市内はどんよりと曇ったような状況でした。どんどん燃えていくので、家まで燃えるかと心配しましたが、6時頃まで防空壕にいました。その後、母たちも戻っているかしれないので家に帰りました。着いたら、母や姉が帰っていたので、荷物や大事な物をたくさん乳母車に乗せて母の知り合いの所へ行きました。約12キロありました。今で言うと外国の難民が子どもの手き、荷物をかついで歩く姿をテレビでよく見ますが、私たちもそんな風でした。私たちもずっと乳母車を押しながらその行列の中にいました。着いた時は、乳母車の車輪がゆがんでいました。着くと婦人会の人が梅干の入った大きな白いおにぎりと漬物をくださりそれが夕食になりました。その日は木の下で野宿しました。

【避難途中での光景】
皮のむけた人、頭から血が流れている人を見ました。避難している途中は、とにかく早く逃げようという気持ちがいっぱいなので、あまり覚えていなかったのです。
 
【被爆後の障害】
2年後ぐらいに肝臓をやられました。髪も少し抜けました。結婚してからも貧血があり、股関節が悪く少し歩きにくいです。

【家族の症状】
弟も股関節が悪くて寝たきりのようになっていたのですが、このままではいけないというので、福岡の知り合いの病院に問い合わせました。そうしたら、診察してあげるから連れてきなさいというので、うちの息子が連れていきました。診察したら、すぐ入院しなさいと言われ、股関節と両膝を手術し、人工骨をいれました。今は正座ができるので椅子に腰掛けてばかりです。
 
【原爆障害への不安】
長男の子どもが生まれ、私たちにとっても初孫なのですが、水頭症で生まれたのです。いまだに車いすなことに、私は心の中で原爆が影響しているのではないかと思っています。原爆の仲間の方でも子どもさんとかお孫さんが障害を受けているので、私の子どもには影響がなく三世にそれが出たのかと思ったりもします。

【原爆を語り継ぐ】
私は原爆の本を持っているので、それを見せながら話しています。毎年夏になったら小・中学校に語り継ぎに行っています。今年で17年です。子どもたちはじっと騒ぎもせず体操座りをして聞いてくれます。
 
【原爆への怒り】
原爆が世の中からなくなればいいと思います。核をなくそうとする一方で、核実験をしているので、核は消えないのかと思います。この核がなければほんと世界中の人が皆平和になると思います。私のいとこと母の兄弟も城山国民学校の付近に住んでいたので、皆直爆死です。ほんとこんなむごいことはないですよね。もう、原爆や核はこの世からなくなって欲しいと思います。
 
【被爆者として】
やはり、初めの頃は被爆者と見られるのがつらかったですが、今はとにかく原爆のことを伝えて本当に早く平和になってほしいと思います。一度に2、3の学校に語り継ぎに行きます。今では学校の方から名指しで来て下さいと電話がかかってきます。語り継ぎをする時は、その当時のもんぺ姿で、血液型や住所、氏名を書いた名札を縫いつけた防空頭巾や救急袋を下げたままやっています。

【子供たちの反応 平和への努力】
「こんな大切な話をしてくれてありがとう」と言われます。いつだったか、頑張ってくださいという手紙をもらったこともあります。前は貧血でよく病院に通っていましたが、今はもう股関節が悪いだけで他にはどこも悪くないです。とにかく生きている限り、死ぬまで語り継ぎをしていこうと思います。
 

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