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近藤 敏子(こんどう としこ)
性別 女性 被爆時年齢 20歳
収録年月日 2006年9月27日  収録時年齢 81歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:1.2km) 
被爆場所 三菱重工業㈱長崎兵器製作所 茂里町工場(長崎市茂里町[現在の長崎市茂里町]) 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 三菱重工業㈱長崎兵器製作所 茂里町工場 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

近藤敏子さん、当時20歳。爆心地から1.2ロ離れた茂里町の三菱重工業兵器製作所で、事務の作業中に被爆。その後、倒壊した工場から抜け出し、火の海となった市内へ。母親と妹がいたはずの自宅には、ただ白骨となった頭部が転がるのみでした。母と兄、私と弟2人に妹の6人で城山町に住んでました。妹が1年生で、弟が4年生でした。城山町は、爆心地から近い所で、当時、浦上川の横に市営住宅が建っていました。私は三菱重工業の兵器工場で、事務をしていました。最初は、入口附近の場所でしたが、その後、工場のすぐ隣に変わったんです。
 
【8月9日】
私は会社に居ました。空襲警報が鳴って、トンネルの中に避難し、しばらくすると解除になったんです。トンネルから出て仕事を始めて10分後位に、爆弾が落ちたんです。私は気絶して何も憶えていないんです。凄い音がして、爆弾だと思い伏せたんです。それで助かったのかなと思います。しばらくして気が付いたら、生きている人は皆、逃げていました。事務の者は、5,6人残っていました。皆、「助けてー」と叫びました。私も助けを呼びましたが、助かった人は皆逃げていて、誰も来ないのです。このまま居たら死んでしまうと思い、自分の足を見たら、事務机の下に挟まっていました。何とかして足を外したら、体は大丈夫だったんです。それで、後ろの人に助けを求めたら、後ろの人も助けを求めて来たんです。
 
「私の足が動いたら、あなたも助けてあげられる。あなたは何処が悪いの?」と聞いたら、板が胸の所に挟まっていたんです。私はうつ伏せのままで、後ろの人に棒切れを渡して貰い、必死で外しました。これが取れないと死ぬと思って、一生懸命やったら外れました。今度は、後ろの人の板を一生懸命押さえてあげて、その人も抜け出すことができました。そうしながら4,5人が助かったんです。女学校の人が2人位いました。1人が上級生でした。
 
5人で逃げたんですが、もうとにかく歩けないんです。ガラスは割れ、鉄は折れて、逃げ場所に気を付けながら、屈んで歩いたんです。出口まで来たら下の方から助けを呼ぶ声がします。女学生なんですが顔が見えません。今度は工場に行って鋸や糸鋸、金槌を持ってきました。皆で、金槌で叩いたら隙間ができて、その人も助かりました。顔中傷だらけでした。私達が気付かなければ、その人は亡くなってたかも知れません。一番偉い人の部屋は、壊れていなかったんですが、ガラスは全部割れていました。部長さんに部屋のガラスを綺麗に掃除するように言われて、5人で一生懸命掃除をしました。
 
部長さんと一緒に工場を見てまわると、熊本高等工業の男子が機械の下敷きになっていました。でも、助けることはできなかったんです。今思えば名前でも聞いてあげれば良かったんですが、部長さんが女性では無理だと言われたんです。その後に、頭が割れた男の子がいたんです。まだ中学にもなってないような子でした。寝かせて頭に消毒液をかけてあげて、布で縛ってあげましたが、もう名前も言わなかったので駄目だったと思います。そういう人が沢山いました。弟が心配になり家に帰ることにしました。すると、部長さんが、自分の家も爆心地に近いから見て来て欲しいと言われました。
 
何処も火の海だったので線路を歩いて帰る事にしました。汽車も止まっていて来ないので、頭に降り注ぐ火の粉を掃いながら帰りました。一生懸命走って帰り着いたら、城山町は火の海で入れませんでした。川の中は、死んだ人が大勢居ました。それで、先輩と一緒に逃げたんです。先輩の所も全部駄目だったんだようです。町中が火の海で燃えてましたから私も家の方には近づけませんでした。火のない川淵を歩いて、商業学校があった草むらまで辿り着き、寝る事にしました。まだ空襲が来てたので、壊れた板を被ってその日は寝ました。
 
【翌日、城山町の自宅へ】
翌朝、とにかく家が心配で、一人で向かっていると、弟が向こうからやって来たんです。弟は一山越えた海岸まで逃げていたと言ってました。弟も気絶して、友達が起こしてくれて逃げたそうです。やっぱり家が心配で見に行こうと思って帰って来た時に、偶然出会ったんです。道はまだ焼け焦げていて、火傷しそうでした。だから、防火用水に足を浸けながら歩いて行きました。
 
家に着いたら、玄関前に白骨が落ちてました。母のようだったので顔を見たら、歯が残ってました。虫歯が2本有って、治療していたので、これは母に間違いないと思いました。遺体の他の部分を掘っても、後は何か分かりませんでした。何も掘る物が無いので、水に浸けながら手で掘っていました。そうしていると、もう一人の弟が川の淵で生きていると言われました。それから2人共、足を防火用水に浸けて夢中で走りました。2人で弟の名前を呼びながら捜したら、川の淵の上の方に黙って座っていました。本当に嬉しかったんですが、もう渇々で一滴の涙も出ないんです。その弟は半身火傷でした。その時は元気だったんですが、次第に何にも食べられなくなっていったんです。
 
汽車に乗って大村に行けば良いと聞いたので、弟を連れて駅に行きましたが、汽車がなく、半日待たされました。その間に弱ったんだと思います。大村の病院に着いたら、満員で診てくれないんです。それで、ナガタという所へ行き、小学校の教室の板の間に寝かしました。そこには、浦上天主堂のキリスト教の人達が大勢いました。毎日、聖マリア様助けてと言って、踊り狂って、苦しんでいましたが、次々と死んでいきました。京都に居た時の父の教え子だった人が、就職をお世話して諫早にいたので、私が電話したんです。すると、直ぐに食べ物を持って会いに来てくださいました。男の方なのに号泣されて、男の方が泣く姿を初めて見ました。大勢の負傷者がいたので驚かれたようでした。その方は、時々食べ物を持ってお見舞いに来てくださいました。

弟は、それから一週間後の終戦日に亡くなりました。そしたら、皆が穴を掘って埋めてあげますと言ってくれました。でも、私は埋めるのにはちょっと抵抗がありました。父の教え子の方に弟が亡くなったことを知らせると、その方が木の箱を持ってきてくださり、火葬場まで連れて行ってくれました。しかし、火葬場も一杯でした。それで、火葬場の前に穴を掘って、焼いてくださったので、骨を拾う事が出来ました。約10日間骨を預かってもらい、妹を捜すことにしたんです。そして、毎日諫早から城山まで妹を捜しに行きましたが、発見する事は出来ませんでした。妹は遺骨もなく、母の遺骨も誰かに拾われていました。名前を書いておけば良かったんですが、皆が身内の遺骨だと思い拾ってしまう状況でした。
 
【戦後の生活】
疎開先では紋付とかを少しは着ていましたが、とにかく着る物が無いんです。叔母が洋服の一枚位は自分で縫いなさいと言っていました。しばらくして会社から退職金がほんの少しだけ出ました。県庁に行くと、半年後の17歳(上の弟)までは一時恩給がいただけました。上の弟と2人で一緒に住んでいましたが、食べ物が無くなって、何も無いから2人で汽車に乗って、島原まで行きました。お金では野菜以外、何も売ってくれないんです。衣料品と交換でないと、お米や芋は絶対売ってくれませんでした。着物は焼けて無かったので、朝、何も食べないで行って、帰りも食べないという状態でした。今考えたら、原爆から3日間位は何も食べませんでした。水も汚い水で飲まなかったのに、よく生きられたなあと自分でも思います。
 
【伝えたいこと】
原爆と言う殺し方は、本当に許せないと思います。小さい弟は、死んだ方がましだと言い続けて死にました。何か食べなさいと言っても入らないと言うんで、ずっと抱いてました。1週間後、天皇陛下の終戦の声をラジオで聞いている時に亡くなりました。私達は、少しは世間を知ってるからまだ亡くなってもと思いますが、弟はまだ小さいから可哀想でね。戦争中に、食べる物も食べられず死んで行ったのは可哀想だと思います。初めの頃は、腹が立ってしょうがなかったです。そこら中を蹴っ飛ばしてやりたい気持ちでした。神も仏もあるものかと思って、神社に言っても頭を下げませんでした。だから原爆の話はしたくなかったです。同じ日本でも原爆に遭ってない人には分からないから。
 

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