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斎藤 寿美子(さいとう すみこ)
性別 女性 被爆時年齢 13歳
収録年月日 2009年11月24日  収録時年齢 77歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:3.5km) 
被爆場所 長崎市鳴滝町[現:長崎市(鳴滝)] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 長崎市立高等女学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

斎藤寿美子さん。当時13歳。長崎市立高等女学校の2年生でした。爆心地から3.5km離れた鳴滝町で、学校に行く途中被爆。当時、家族と離れて一人で下宿していた斉藤さんは、家族の元へ帰るため、爆心地付近を通ります。そこで目にしたのは、ヤケドに苦しむ人達、崩れた建物など、想像を絶する、変わり果てた長崎の街でした。
 
【被爆前の生活について】
小学2年から4年までは、今の中国の山東省という所に住んでいました。それから、また長崎へ帰り、小学校6年まで大瀬戸町にいました。女学校の1年から長崎市内に下宿して住みました。長崎に戻ったとき母も、中国から引き揚げていて、妹と母と3人暮らしでしたが、母の臨月が近付いていたので、母は自分の実家がある大瀬戸へ引き揚げることになり、その時は私一人でした。
 
【被爆当日の様子】
朝起きると警戒警報が鳴っており、今日は学校に行かなくていいと思っていたら、解除になったので、身支度を整えて出掛けました。女学校は歩いて10分ぐらいのところにありました。登校途中の上級生の家の前にいた小さな子と話しながら遊んでいると、何かきらっと光りました。上を見ると、飛行機が飛んでいました。それで、「解除になったのに、飛行機が飛んでるけど、あれは味方の飛行機かねえ」と言った、その時にぴかっとなりました。
 
ちょうど、市立の学校の方向だったので、「学校に大きな爆弾が落ちたよ」と言ったのは覚えています。小さな子は、すぐ、そこの家に入りましたが、もうその時には、屋根の瓦は落ちるし、爆風と言いますか、風がばあっと吹いて来ました。上を見ると、真っ黄色い光が光っていました。そんなことを覚えています。畳を上げて床下に穴を掘った防空ごうの中におばさんが、「入んなさい」と言ったので、子供を連れて、急いで飛び込みました。玄関の戸や色々なものが倒れたので、「ケガしなくてよかったね」と言いながら、しばらくはじっとしてました。
 
その後、これでは学校には行けないので、瓦などが落ちるのが終わったころに、一度家に帰って来ますと言って帰りました。近いと言っても、道は瓦や戸や石などが落ちていて、真っすぐ歩けませんでした。それでもなんとか、家までやっと帰りました。2階の自分の部屋に上がったら、雨戸なども倒れてしまって、足の踏み場もありませんでした。その後、隣組の組長さんがみんな長中の正門のところへ行きましょうと言うので、その時は既に、防空ずきんも他のものもみな背負っていましたから、そのまま行きました。
 
正門の裏に、防空ごうがありました。一山越えたとこに本河内という水源地があり、長崎市内に通す水道管があったので、その水道管がある横穴を防空ごうに使っていました。隣組の人や町内会の人がほとんど入れるだけ余裕がありました。私は瀬戸に引き揚げるまでずっとそこにいました。その間、昼間少し家に帰ったりして、夜になると防空ごうの中でみんな泊まりました。鳴滝町には、シーボルトの鳴滝塾がありましたが、私のいるところはそこよりも少し手前でした。鳴滝と浦上との間には、西山という小高い山があり、その山の陰で割と被害が少なかったようです。「高いところから落としたのに、上のほうではそんなに破裂しなかったから良かったんでしょうかねえ」とみんなが後で言っていました。
 
【被爆した市内の様子】
おてんばな私でも、こんな時に母がいないということはとても不安でした。だから、早く母がいる瀬戸に行きたいと思いましたが、この状態では車もバスも船も出ないという事で、歩いて行かなければなりませんでした。鳴滝は市内でも東の端にあります。大瀬戸町へ行くには、中心部を通らないと行けません。諏訪神社を通って行くと、新興善というところがあり、そのそばに市役所がありました。そこまで歩いて行きましたが、それが3日目か、2日目ぐらいだったと思います。広島に新型爆弾が落ちたと言う事が、ビラに書いて貼ってありました。
 
新型爆弾て言うんだねと話していたら、消防署の人のような男の人たちがいっぱい立っていました。「どこへ行くのか」と言うので答えると、「危ないからそっちに行ったらいけない。また元のところに戻りなさい」と言われたので、引き返しました。横穴に戻り、組長さんに伝えると、「もう当分行かれないね」と言われました。そこには、男性はあまりいませんでした。中学生くらいの女性たちがいました。その人たちは市内に捜しに行きました。その時に色々な情報を得てきて、「ガス会社も焼けているから、あちらのほうは通れなくなるよ」と言っていました。
 
市内の被災した所に入ったのは、4、5日たってからです。もう、その時はガス会社のあたりには、焼けた馬や焼けた人の死体などは余り見かけませんでした。建物は全部焼け焦げてました。私は7月には、兵器工場の中の鋳物工場に、学徒動員で行ってました。しかし、そこにあった建物は、鉄骨だけになっていました。原爆投下の日に行ってたら、私は死んでいたと思いました。爆心地の浦上あたりに行くと、電車が焼けていました。「そこら辺にはまだ死体があるね」と通る人たちが言っていました。
 
【被災者の様子】
終戦の話は、長崎で聞きました。「ああ、これからは空襲を受ける事も無いから、もう帰ってもいいね」と大人の人たちと話しました。伊良林小学校というのがあり、学校自体は、特に被害を受けてないので、浦上の人たちがみんな運ばれて来て、講堂や教室が避難所となりました。少しでも傷があるとウジ虫がすぐはい回り、咬まれると痛いらしいです。そうして亡くなると、足や手がこんなに腫れてしまいます。みんな赤黒や紫色になって、ぱんぱんに膨れていました。そして、少し触るだけで皮がぺろとむけていました。そういう人たちをみんな、男の人たちが抱えて、運動場に大きな穴を掘って、疎開で壊した家の材木を持ってきて、組んでから、そこでだびにふしました。においも凄いですし、顔を少し触ると皮がぺらっとむけて、とにかくぱんぱんに膨れていました。
 
そのころ母と妹と3人分の配給がありましたので、お米は割とありました。それで、おむすびを作って、友達でもいるかも知れないと思い持って行ったりしてました。小さい子がいたら、その子たちにあげたりしました。それに、「水をちょうだい、水をちょうだい」と言う人もいるし、「あげたらいかんよ」と止める人もいるしで、やはり初めてああいう場面を見たので怖かったです。行く途中で、ラジオで大事な放送があるから聞かないといけないと言うので、大人の人が、みんなが集まっていました。
 
【家族との再会】
それから、終戦の次の日に、歩いて帰りました。途中で駐在所に泊まって、母の里へ行きましたら、みんながとても喜んでくれました。妹が7月30日に生まれていました。夜通し他の人々が長崎から歩いて来るから、寿美子も帰って来てるだろうからと、出産後間もないのに母と祖母は、おむすびを持って、3里ぐらい離れたとこまで、夜歩いて迎えに行ったと言っていました。そんな話を聞いたときは、やはり、胸が詰まりました。ああ、これだったら、無理してでも、もっと早く帰ってくれば良かったなあと思いました。
 
【被爆後の後遺症について】
長崎から、母のところへ帰るまでに、私の具合が悪くなりました。出血したり、口内炎を起こしたり、熱が出ました。また、元気が出ないし、斑点も出ました。その当時は、ぶらぶら病などと言われました。鼻血も出ました。鼻血は出だしたらなかなか止まらないのです。それで、病院に行って、注射を打ってもらったり、麻酔薬みたいなのをかがされて、やっと止まるような状態でした。

学校では勉強はもちろんありません。県庁の職員から爆心地付近に、植物を植えて、後の放射能を調べると言われ、みんなで行きました。畑を作って、ゴマやカボチャを植えました。大きな建物や、障害物はもうあらかた無くなっていましたが、地面を掘ると骨や色々なものが出てきました。それで、ああ、また骨が出て来たと言って、それを片寄せして、植えました。その当時、原爆症というのはわかりませんでした。原爆症とわかったのは、23年ぐらいに高知に引き揚げてきてからです。27年にまた長崎に行きました。それ以降、結構、病気をしました。
 
長崎の郊外に、伊王島というところがありますが、そこで、商売をしていましたので、そこから長崎市内の病院に通いました。その時に原爆病院で、あなたの場合は、直接被爆ではないけれど、何回も通っており、この症状からすると、やはり原爆症のようだから、厚生省へ申請してみましょうと言われました。そして、原爆症と認定されました。原爆症という症状は、寝てるばっかりではありません。調子のいい時もありますが、悪いととてもつらいです。
 
【平和への願い】
私はそれまでに、リウマチにもかかりました。リウマチはとても痛いです。他の人には、リウマチにはかかってほしくないです。こんなにきついし、嫌な思いもするし、それから痛い目にも遭ったんだから、これだけはもう自分たちだけで、今からの人達には誰にもこんな原爆に遭わしたくないというのが一番の気持ちです。誰にも、もうこんな原爆のつらさには遭わせたくないです。
 

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