佐藤寅雄さん、当時20歳。陸軍の船舶隊に所属。物資を輸送中に負傷し、長崎市内の病院に入院していました。被爆後、街中は燃えさかり、倒壊した病院には、続々と負傷者が運ばれてきました。4カ月後、故郷の秋田に帰りましたが、後遺症の不安に怯えながらの生活が続いたのです。
私は横須賀の海軍工廠におりまして、船の関係で福山のほうに回されたそうです。秋田の、東北の連隊に入るのが普通です。船の仕事で福山に3カ月いまして、広島に行きました。広島から船でサイゴンへ日本の兵隊に物資を運びに行く予定でした。行った船がほとんど途中で潜水艦に沈められて帰ってこないため、急遽、長崎に変更になり、長崎から五島列島に、船で輸送の仕事をしました。小さい木造船で5艘づつ船団を組み、五島列島の部隊に1週間に2回程度づつ、物資の輸送をしました。
五島列島の港での作業中、機銃掃射がきて、兵隊17人が亡くなりました。重症の患者は長崎大学病院に入院させました。私も頭を負傷しました。私は軽傷だったので、私の班の重症患者の兵隊2人の付き添いをするよう指示があり、それで長崎に5カ月おりました。長崎は外国のキリシタン、アメリカやイギリスといった昔の貿易があるから、爆撃がないだろうと。だから5カ月いて九州の爆撃は1回だけです。
爆撃は長崎医科大学の病院の裏山に500キロ爆弾が1発落ちましたが、病院は鉄筋コンクリートの3階建てでした。空襲が少し来るようになり、地下にある薬品の倉庫を病室にしました。薬品を全部寄せ、ケガの病室にして重症患者8人をベッドに入れました。空襲が来るたびに、看護婦が重症患者を担架で1階に運ぶのです。大変な苦労で、それを楽にするため地下に病室を作り、重症患者を入れました。
11時、私は医者と看護婦2人とその地下病室にいました。私は患者の手を持って包帯を取り替えたり、包帯を洗ったり、そういう仕事ですから。そのとき原爆が落とされました。その部屋は山側にガラス2枚を使った窓がありましたが、何が起きたか分かりませんでした。山に積んだドラム缶が崩れるような、ガガガーッという音がして、真っ暗になりました。どのくらいの時間だったかは、時計が無く分かりません。地下室の上の水道管が破れ、水が出ました。入り口に大きい爆弾が直撃を受けたと思いました。やがて外が明るくなり、助かった、と思いました。 明るくなってから4、50分ほど経って外に上がってみたら、長崎の街が、木造の建物が、全部燃えているのです。
【惨状】
山に積まれた工場の石炭が全部燃えていました。何があったか全然分かりません。病院から火は出ませんでしたが、病室のガラスは全壊でした。窓向きに立っていた人は、看護婦も患者も、ガラスの破片が全部刺さりました。ガラスを紙で十字に補強していましたが、効果は無かったです。私が付き添いした人と軍医と一緒に、患者を2階から下ろして、病院の1階の廊下へ全部並べたのです。
その晩からそこで軍医と看護婦を手伝い、患者の治療をしました。真っ黒に焼け、皮膚がダラダラ垂れ、皮が全部取れ、焼けた跡が大変でした。一番ひどいのは窓際へ立っていた看護婦で、白衣1枚しか着ておらず、ほとんど刺さっていました。何百の患者を、夜ずーっと廊下に寝せました。2、3日経つと今度はウジが湧きます。小さく黄色いウジが動いて、噛むのでピンセットで取って皿へ入れます。私は看護婦を手伝いました。山に高射砲陣地があり、そこの兵隊も被爆しました。彼らは毎日剃らないので髭が多く、髭が全部焼けて、そのあいだをウジが這って歩くのです。それをひどく痛がりました。10人ほどウジを取れば皿がいっぱいになるのです。体から這って歩くウジを、3日ほど取っていました。
ほとんど軍へ持っていったので、病院に薬が無いのです。天ぷら油はあったので、何も効果はありませんが、天ぷら油を塗るわけです。気休めに塗るというか、いくらか痛みがやわらかくなるので、天ぷら油を使うのです。大学病院も治療をする薬がないのです。
【町の状況】
工場の屋根は飛び、鉄骨が曲がっていました。長崎には軍の兵器工場である三菱工場がありましたが、損壊が激しく見る影もありませんでした。木造の民家は飛んで焼け、1軒もありませんでした。しかし長崎は山と山のあいだの街ですから、その山の陰は比較的被害がありませんでした。毎日地方から、近所から訪ねてきた親が、娘、息子を見つけて泣き崩れていました。交通の便が悪く、亡くなった子を連れて帰れないのです。山の上に壊れた家具などを持ってきて、それを積み重ねた上に死体を乗せて焼くのです。私は手伝ってもらい、兵隊を一人焼きました。私は付き添った兵隊の1人分の遺骨を、ボール箱に入れて持ってきて、苦しいけれども、それを原隊に置いてきました。
4日目ぐらいに長崎の街を汽車が通るようになりました。衛生隊、久留米の兵隊、近辺の軍が全て長崎に応援に入り、多くの復興をしました。汽車が通って初めて、人の出入りができたのです。それまでは道路が燃えておりトラックも人も歩けず、3日ぐらいは長崎に入れませんでした。ただ長崎というところは山の街で、長崎の港の方はガラスが割れたぐらいで、ほとんど被害がありませんでした。長崎から3つ目の駅の坂本町に、大学病院と医科大学が2つ、あと学校も多くあったので、その道路を歩くと、真っ黒になった人が多くいました。長崎には物を引く馬も多かったのですが、爆風を受けた焼けていない馬は、腹や脚が膨張しました。そんな馬が道路にゴロゴロといたのです。
私は地下壕に入っていたために、直接光線を浴びず、やけどもなくケガだけでしたが、本当に怖い爆弾だということが惨状で分かりました。戦友で亡くなった人を私は見てきて、光線と爆風と両方の被害を受けてしまう、本当に恐ろしい爆弾だったと思います。
【出産への不安】
子供も産まれますし、後遺症の話は聞いていましたので本当に不安でした。これはお話しても、当事者の思いは伝わりにくいと思います。写真でもあれば別ですが、とにかく大きな被害の爆弾だった、としか言えません。今、私には孫とひ孫がいるのですが、健康に暮らしています。
【伝えたいこと】
やはり広島でも長崎でも現地を見て、被爆に関する写真や現物を、現地で見ることが一番いいと思います。長崎でも原爆の映画を上映しました。映画を見ても、ある程度感じると思います。しかし実際その場所で見たのと映画とはまた少し違うでしょう。平和な時代が長く続くと、60年も前のことを伝えるのは難しいですが、、これからの人に、こういうことがあった、と伝えていきたいです。
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