新宮義盛さんは、当時17歳。 爆心地から1.2キロ、茂里町の製鋼所で被爆。建物に押しつぶされて重傷を負い、回復に4年かかりました。その後、被爆が原因で離婚するなど、苦労の多い人生でした。
【当時の住居と仕事】
長崎の三菱製鋼所の寮に住んでいました。製鋼所では、機械の設備工の仕事をしていました。旋盤やモーターの修理が主でした。新しい機械を据え付けたり、修理をしたりと色々なことをしている職場でした。会社が大きかったので、溶鉱炉、電気機械など色々なものがそろっており、職種もいない者はなかったように思います。
【長崎へ来たのは】
家にいると、炭鉱に徴用されるので、どこかに就職しなければと思っていました。父に相談したわけではないですが、学校から三菱製綱所の試験があることを聞いていたので、5人位で一緒に試験を受けました。当時は、人員がいないときですから受けた人は皆合格しました。
【当日の朝 被爆の瞬間へ】
朝、いつものとおり出勤して、仕事にかかろうとすると空襲警報が入ったので山の方に避難しました。解除になったので、山から下りてきました。班長の考えで食事を済ませてから現場に行こうということになり、食事の準備をしていました。私より1級下のオキタという者がお茶を沸かしていました。私は台ふきで机を拭き、オキタにお茶の催促をしようと窓際に立った瞬間に光ったのです。私はそれきり気を失いました。
気が付くと、500メートル以上飛ばされていました。光を見た瞬間に気絶したので、爆風や音もわかりません。朝、目を覚ますように起きると、見渡すかぎり火の海なのです。そこから、20〜30メートルぐらいの所に岩をくり貫いた防空壕がありました。あの有名な一本足の鳥居の下にありました。そこは、いつも通っていたので、防空壕があることは知っていました。だから、あそこに逃げようと思ったのです。
防空壕に入って初めて自分がけがをしているのに気づきました。防空壕の中はけが人でいっぱいでした。私は自分のバンドに血が溜まっているのに気づきました。触ってみるとバンドの後側にも血が溜まっており、顔も血だらけでした。頭もけがしたと思って触ってみると頭が割れていました。自分もけがしていると思い、防空壕の端にしゃがみこみました。防空壕にいる誰かが、今、3時だと言っているのが聞こえました。
私は、寮に帰らなくてはと思い、立ち上がろうとしましたが、右足が動かないのです。右足をどうにかしたら、なんとか動くようになりました。それ以来、右足が痛むことはありませんでした。寮にたどり着いて驚きました。燃えて何もなく死体ばかりでした。寮までたどりつくまでの悲惨な状況といったらありません。皆川沿いに逃げていました。死んでいる人が3分の2、生きている人が3分の1でした。死んでいるかどうか確認しながら死体をまたぎながら寮まで行きました。被災者が動いていると恐くて近寄れませんでした。寮に着いてそんな状態でしたから、正門の前でぼんやりとしていました。
【爆心地の光景】
爆心地を通るとき、その付近に死体がなかったことが不思議でなりませんでした。浦上天主堂の近くに下宿していた人から、人が消えるのを見たと聞きました。目の前の人が爆風で飛ばされたり、高熱で溶けたのだと思いました。その話を聞き、瞬間的に人が亡くなったことで、爆心地に死体がないことがわかりました。片付けた後ではなかったのです。
【避難の途中で】
線路伝いに避難しましたが、体がつらくなったので、休憩しようとその場にしゃがみこみました。線路にしゃがみこんでぼうぜんと人が通るのを眺めていました。自分より少し背丈の高い竹の杖を持った人が私の目の前で止まりました。今でも忘れられないのは、その人の右目はなく足も太ももから下が折れてぶら下がったような状態でした。
【被爆による負傷】
頭の上の方を触ったらてっぺんが裂けているのです。傷口は手が入るくらいの広さになっていました。かなり奥まで入ったので、ひどいけがをしたと思いました。そのうち、目が見えなくなってきたので死に向かって進んでいるなと実感しました。走馬灯のように父、母、兄弟の顔が幻のごとく迷っているのです。その繰り返しが長く続きました。
【汽車で避難】
汽車が来ているのがわかったので、手を伸ばしたら兵隊さんが引き上げてくれました。その後、生死の境をさ迷いました。のどが渇き、何がなんだかわからず、意識がもうろうとしていました。私は死ぬだろうと思っていましたが、頭を振ると意識がだんだん戻ってきました。諫早に着いた時、駅掌さんに聞くと、大村海軍病院に行くと言われました。それは大変だと思い、反対側の汽車に乗りました。汽車の中にはけが人誰一人おらず、自分だけ血だらけでした。座席は空いていましたが、汚したくないので、そのまま立っていました。
鳥栖に着き、軍医と衛生兵にどうしたのかと聞かれました。私は長崎で空襲にあって、ここまで逃げてきましたと言いました。その時、しまったと思いました。それは、逃げてきたと言ったら、その当時は非国民だったからです。でも、その軍医から治療しないと死ぬと言われ手当てしてもらいました。
【故郷へたどり着く】
母は頭のけがより私の格好が悲しいと言いました。そのはずです。私は、油まみれでピカピカに光り、ところどころチリヂリと焼けていました。
【被爆者への差別】
結婚する時に一番感じました。式を挙げて明くる日に被爆者だと言ったら、それがもとで破談になりました。2回目の結婚も同じでした。一生、結婚せず弟を養うつもりでしたが、今の家内と見合いをして結婚しました。被爆者だと言っても結婚してくれて感謝しています。
【被爆者の悲惨な姿】
被爆して死んでいく人の苦しみは見てられないとみんな言います。放射能で亡くなった人が多いと思います。だから、原爆の研究を十分にして欲しいと思います。ほんとうに少しの差で生き延びた人もいれば死んだ人もいます。いろんな病気をすることで、被爆が原因かと思いますが、
【原爆への怒り】
それは考えないようにしています。被爆したからこうなったと思うとつらくなるだけです。怒ってみてもどうしようもありません。爆弾を落としたアメリカが悪いのでしょうが、アメリカはこれを正当化しています。いつも話をするとき言いますが、何もかも忘れた頃にやってきます。戦争を知らない人ほど、それを使いたがると思います。とても恐いことです。
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