高野 澄子(たかの すみこ)さん。当時13歳。爆心地からおよそ2.5キロの川平町で被爆しました。いとこを実家に送るため、二人で地図も持たず山の中を3日間歩き続けたことは今も忘れられません。戻った市内は死臭がただよい、浦上天主堂のマリア像も倒れ、まるで地獄のようなありさまでした。生かされたものの使命として、被爆体験を伝えなくてはいけないと平和運動に取り組んでいます。
【被爆前の暮らし】
私は13歳のときに長崎で被爆しました。被爆前の長崎はわりと平和でした。あまり空襲も受けませんでした。ちょうど1週間ぐらい前から爆音が聞こえたり、造船所の方に爆弾が落ちることがありました。「ああ、怖いわね」と話していました。その時には工場にいて、防空ごうに飛び込んだりしていました。B29の姿は、飛んでいくところは見えましたが、長崎には来ませんでした。だから私たちは、長崎は歴史のあるところだからね、「残されたのかな」と思っていました。その当時私は女学校の2年生でした。学校はほとんど授業がなくて、2年生の後半から、私は純心女学校というところに行っていましたが、すぐ近くに三菱兵器の造船の工場があり、そこにみんな学徒動員で勤めることになりました。
【8月9日】
私は川平町の自宅に住んでいて、そこで出勤にそなえて待機していました。朝から空襲警報が出ていたのですが、解除になり、更に警戒警報も解除になりました。やれやれと防空ごうから出て自宅に入り、支度をしていました。私の家族は、母と19歳の姉、祖父が1人いました。西彼杵の方から来た、私のいとこ、同じ13歳で県立の女学校に行っていたヨウ子ちゃんがうちにいました。
警報が解除されたので、家で支度をしていました。母と姉は中心地よりずっと港の方の繁華街の方に買い物に行っていました。朝から出かけていたので、自宅にいたのは、私といとこと祖父だけで、みんなばらばらでした。警報が解除になって普通の日常に戻っていたので、いきなりワーッときました。もう目もくらむような光線と音。目も開けていられませんでした。すぐに真っ暗になっていたのでしょうが、すっごい音で、目はつぶっていました。体がこう動かされて、今でもそれを体が覚えています。どのようにお話ししていいか分からないぐらいです。時間がどれぐらい経ったのか分かりませんが、ハッと目を開いたらもうがれきの中に挟まっていました。一生懸命にがれきをかき分けてはい出しました。振り返るとなんて言うか、その破壊力は普通の地震でグラグラッとするような感じではありません。家は本当にひっくり返したようになっていて、私はその中でよく生きていたなと思って、震えが止まりませんでした。
「あっ、ヨウ子ちゃんはどうしたかな」と思いました。昔の田舎の家は広かったので、向こうの方からヨウ子ちゃんはい出て来ました。「はぁー怖かった、何だろうなぁ」と思いました。祖父もがれきの山の中からはうようにして出てきたというかんじでした。それから3人で木の下に行って、こうやって身を寄せ集めて、母たちの安否を気づかっていました。母たちは夜、夕方になって帰ってきました。「はぁー、よかったわねぇ」と言って。そうしたらお隣の方もそろそろとみんな家を目指して、杖をついたりして戻って来ました。
【アメリカ軍によってまかれたビラ】
原子爆弾だということはビラが落ちてから分かりました。そのビラに書かれていました。3日前に広島に落としたのは原子爆弾で、新爆弾だったと。すごい威力を持っていてB29が2000機で爆撃した威力のあるものだと書かれていました。そして長崎に落とされたけど、その原子爆弾だということを教えてくれて、早く天皇陛下にお願いしてこの戦争を終結してくださいと書かれていました。私たちは、ばかみたいに「だまされないぞ」と思っていました。本当のことが書いてあったのに。早くお願いして戦争を止めないと、日本国中、新爆弾で全滅してしまうと書かれていました。そのビラを今でも持っています。これは私がそこにいて、原子爆弾の被害を受けたという何よりの証拠です。真っ黒になっていますけど持っています。
【いとこの実家へ】
翌日、いとこと2人でがれきの中から防空頭巾など色々なものを探し出して、身に付けて、出発しました。午後からだったと思います。時津の方から抜けられる道があるというので、2人で尋ね尋ね行きました。どこにも泊まれないかもしれないから、野宿をしてでも、とにかくヨウ子ちゃんを実家まで送ろうと行きました。でも地図も何もないので、人に聞いて「こっちの方向、こっちの方向」と言いなが歩いて行きました。時津に着いたときにもう夕暮れになりました。たったあそこから越えるだけでもう夕方でした。時津に東京の商社が持っていた別荘がありました。そこを訪ねると留守番をしていたおばあさんが1人いて、「大変だったね」と言って泊めてくれました。
翌日、今からヨウ子ちゃんを家まで送って行くと言うと、おばあさんが「とにかく気をつけて行きなさい」と、おにぎりを作ってくれました。お米のない時でしたが、白いご飯を炊いてくれ、梅酢という梅干を作るときの酢がありますよね。夏のすごく暑いときなので、腐らないようにそれを混ぜておにぎりを作ってくれました。それを背負って二人でずっと歩いて行きました。元気を出して、ありったけの歌を歌って、歌が好きだったものですから。
2日目に2人でトボトボ歩いていたら、よその人が、「どうしたの、どうしたの」って。長崎で何か大変なことが起きたらしいということだけは、その人の耳にも入っていたようで、色々と話をすると、「今日はうちに泊りなさい」と言われました。そしてまたそこでもおにぎりを作ってもらい本当に助かりました。2人はビクビクしながら歩いていたのですが、いとこは家が段々近くなるので喜んでいました。私は段々こんなになっていきました。母たちがどうしているのかと。まだ戦争中ですから、もう母に会えないのではないかと出発の時に思いました。だけど母は「この子だけでも助かってくれればいい」と思って、私を行かせてくれたのです。そういう思いをしながらずっと歩いて、13日にいとこの実家にやっと着きました。だから私の中ではこの経験が一番忘れられないくらいです。
【終戦後、長崎市の自宅へ】
15日はいとこの家で過ごしていました。そして天皇陛下のお言葉を聞きました。あの頃は、もう1人になるまで日本は負けないというような教育を受けていましたから、本当に泣きました。「悔しい、悔しい、こんな耐えてきたのに」と思って泣きました。16日に佐世保の方から外洋を回る船が出るという話を聞きました。「私、帰ります」と言いました。その汽船にはいっぱい人が乗っていました。長崎に向かって、肉親や知人を捜しに行く人たちが乗っていたのでしょうね。船で3時間か4時間ぐらいかかりました。長崎の波止場に着いて、トボトボと1人で中心地に向かって歩き始めました。とにかくずーっと向こうまで見えていました。何もない焼け野が原です。
被爆直後に写した写真です。帰り始めたら、とにかく道は一筋の道で、あとは木があっても分かりません。こっちを見ても、こっちを向いても捜してもらえないお骨が転がっていました。これにみんな写してあります。そういうところを見ながら歩いていると、パッと形に見えるのは大きな馬とか牛でした。まだくすぶってずぶずぶになっていました。人間も半分焼けたような人がいました。長崎に帰ったのがまだ6日目ですから、何万人も死んでいる中で片付きません。死臭が漂い、ハエがいっぱい、ウジがわいていて、そのハエが背中にピタッと止まってきます。その中を、あっちを見たり、こっちを見たり、目を伏せたりしながら、川平町までの6キロの道をトボトボ、トボトボ、何にもないところを歩きました。本当に地獄を見ました。
私が船から降りて川平町に行くまでの間、生きている人は燃えなかったがれきを集めたその中に「うーん、うーん」と言っていました。1週間も経っているのに、そういうような状況をずっと見ました。私は本当に奇跡的に助かったのだと思いました。そして子どもながらに色々と苦しみました。長崎はクリスチャンの街です。浦上の天主堂を見るとマリア様の像も落ちてしまって本当に悲惨でした。こんなお話はしたくないです。私にしか分からない。本当に人に聞かせたくない。それからもう私は口をつぐみました。
やっとの思いで行くと、中心地からすぐ先に学校があります。見ると焼け野が原、もう消失してしまって、こちらの工場も骨組みがちょっと残るぐらいでした。そこをずーっと帰っていき、夕方、川平町に戻ったら、そこで母たちと再会できて、もう喜んでうれしかったです。
【被爆後の生活】
学校から招集がかかったのは、ひと月ぐらい経ってからだと思います。校舎がないので大村に戻って行きました。大村に移って3年のときに活水女学院というところ、長崎に移りました。それからはずっと学校は活水女学院でした。私は音楽が好きでしたので、本当は音楽科に行きたかったのですが、けがをしていたので「ピアノがだめだよ」と言われました。やっぱり被爆の時にちょっとけがをしていました。今でも人の前に出せない、変形したような指があります。やはり無傷というわけにいきませんでしたから。
活水女学院を卒業してからABCCに1年入りました。ABCCは米国原爆傷害調査委員会と言いました。厚生省から役人のお医者さんたちも来て、そこで1年間働くことになりました。お陰様で人の知らないことも勉強しました。説明もしてあげられる。遺伝子の研究をやっていましたから。妊婦の人とか、色々な人をお連れしました。診察を受けるといって。今にして思えば、統計を取るだけで治してはくれませんでした。だけど一生懸命にみなさんのために頑張らなければと思いました。
その頃には兄たちが長崎から東京の商社などに戻っていて、私も行ったら「東京で働きなさい」と言われました。それで三井物産の秘書課でずーっと働き、その関係で国会の秘書もしました。色々な事をやりましたが、「とにかくみんなの役に立つようなことをしなくてはならない」というのが私の思いでした。
【健康への不安】
私が「もう結婚もできないし、子どもも産むことはできない」と思ったのは、ABCCに入ったときに色々な方の調査をして、医師たちの話を聞いたからです。それで「ああ、私は子どもを産めないんだな」と思いました。その後、三井物産に入ったときに私は主人に巡り合いました。私は友人と思っていたので、結婚のことを別に考えませんでした。それが結婚という話になって、その話の最中に私は腎臓を摘出することになり、会社を休んで手術を受けました。私はその他にも色々な病気をしました。胆のうやぼうこうなど、ひと通り五臓を。今も持っている病気でどうしても治らない糖尿病もすい臓にかかります。普通の人だったらそんなに多くの病気はしませんから、これは確かに被爆の影響だと自分では思います。ただ、がんになればもう死ぬということが分かっているので、がんにはならないように気をつけてきました。
主人は「子どもは産まなくてもいい。夫婦だけで幸せに生きている人がいっぱいいるから、そんなのは考えないで」と言って、何回も何回もプロポーズしてくれました。私はそれにほだされたという感じで結婚しました。子どもは産めないと思っていたのですが、結婚して6年経ってお医者さんに相談すると、「大丈夫でしょう」と言われました。でもね、すごく苦しみました。どんな子が生まれるかで。6年目に子どもを出産しました。女の子でしたけど、大きな子で、初めてだったのに4000グラムもありました。普通は2000グラムとかで、「こんなにちっちゃかったのよ」と言う人もいますが、私の場合はこんな大きな子が生まれました。ですからもちろん手術をして産みました。今はその子も逗子に住んでいます。52歳で、その子がいたから私は生きられたと思います。
【証言活動】
私は今、原爆を受けた人のためにね、みんなは話してくれませんからね。私も苦しいけれど、「もういいや、私は使命だと思っているから」と思って、ずーっともう20年、ぽつぽつとしています。キリスト教の教会にも行きました。教会には信者の人がいて私も祈りました。「どうして敬けんなクリスチャンがいる長崎に原爆が落とされたのでしょう」とお聞きしました。すると「神様には責任がない。人間が戦争のためにみんなを殺りくする原爆を作った」と。私はそれを聞いて本当に悔しい思いをしました。
私自身が生かされていって、私が生き残ったということは、「何かしなさい」ということだと思います。私はクリスチャンの学校ばかり行っていました。私はクリスチャンではないですが、精神的クリスチャンと自分のこと言ってきました。長崎の人たち、クリスチャンの人たちは騒ぎませんでした。文句も言わないで10年間を過ごしました。やはりキリストの犠牲的精神がクリスチャンにはあるのです。だからアメリカに占領されても、何も言わないで、じっと耐えていました。
大やけどをして「だれ、あなたは?」というぐらいのケロイドでわからなくなっている人たちがたくさんいました。私は光を浴びなかったのでやけどはしなかったですが、その代わりに内臓はひどい状態です。それでも命は助けていただきました。だから私はお伝えしなくてはいけないのです。これにも書いていますが、私にはお伝えしなくてはならない使命があるのだと思います。だから小学校や中学校、それから仏教のところも行きました。ありのままで、何も考えることはなく、自分の中からそのときを出して話しています。小学校の生徒はどんな怖い話が出るかとびくびくしていますが、それが学校の平和運動の糧になっているのです。私もたすきを掛けて平和のために歩いています。足を引きずりながらでも歩いています。小学校の生徒は証言を聞いた感想を手紙でくれます。みんなからもらったいっぱいの手紙に私は励まされています。
「つらかったでしょう、だけどよく私たちに話をしてくれましたね」と子どもがそういうことを書いてくれます。「僕たちが、未来に伝えてね」と私が言うもので。私はいつも子どもたちに言います。「話を聞くのは苦しいね。話すほうも聞くほうも苦しいけれど聞いてね。これだけは覚えておいて、未来に受け継いで話してね」と言います。本当に孫に話すような話し方しか私はしません。決して上手な話ではありませんが、自分が経験しているからお伝えできる、それだけのことなのです。
【高野澄子さんの「高」の字は、正式には「はしごだか」です。】
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