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田中 春子(たなか はるこ)
性別 女性 被爆時年齢 14歳
収録年月日 2004年  収録時年齢 74歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:1.4km) 
被爆場所 三菱重工業㈱長崎兵器製作所 大橋工場(長崎市大橋町[現:長崎市文教町]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 国民学校 高等科 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

田中春子さんは当時14歳。爆心地から1.4キロの大橋町で被爆しました。頭は焼け、泣き叫びながら、はだしで逃げ続けたあの日が忘れられません。結婚後、周囲から出産を反対されて苦労し、今もがんや心臓発作で苦しんでいます。
 
【被爆前には何を、-】 
13歳から14歳まで爆心地から1.4キロの三菱兵器で仕上げ工の仕事をしていました。その時はお昼前で、椅子に座って休んでいました。そして、何やらピカーッとしたな、と思った途端、ドカーンときました。オレンジ色の光でした。私は真ん中で、同級生が両脇にいました。当時は国民学校の高等科に通っており、学徒動員で、魚雷の真ん中の部分をガスで焼いたりする仕事をしていました。

【原爆による家族の被害は】
当時、家族は兄弟5人と父親、母親です。兄は三菱造船に行っており、父親は警防団員でした。父親が一番早く亡くなりました。父親は早く亡くなったのは、警防団で亡くなった人たちを集めて火葬したり、救援活動をしたりして、ガスを吸ったからではないでしょうか。私は中心地近くにいて一番ひどかったのですが、命だけは助かりました。母親は、今から7年、8年前に亡くなりました。直接被爆していませんが、私を捜す道中でガスを吸ったのかもしれません。兄もその後、何年かははっきり覚えていませんが、心臓破裂で亡くなりました。原爆が落ちて煙が上がっている所を、「助けてくれー、助けてくれ 」と言う人たちの中を通って家に帰って来たので、被爆していないとは言えません。私より下に3人、弟2人に妹1人。そして私と兄、もう1人、終戦後に生まれた子がいます。

【被爆の直前は】
同級生4、5人で、山道を通って行こうとすると、空襲警報が発令されましたが、すぐ解除になるからと、まだ子どもですから、ヤマモモやスモモを採ったりして道草しながら職場に着きました。お昼ということで椅子に座ったところにピカーンとなりました。あの時、山越えせずに電車に乗って行っていたら、途中でやられていたかもしれません。
 
【被爆の場所】
工場の中です。工場の中で材木が落ちてきましたが、私は隙間にいたから助かりました。避難する時、私ははだしでした。今思うと、よくくぎも刺さらずに逃げられたな、と思います。ガラスによる傷はありましたが。

【被爆の瞬間】
まだ子どもでしたからパニックになり、煙、ごみ、ほこりをかぶって頭が真っ白になって逃げました。警防団の人や自治会の人について、線路を、はだしでずっと歩いて行きました。ドーンという音は耳にしましたが、あまり記憶はありません。ただ光がパーッと光ました。逃げる途中飛行機の音が聞こえたので、友達と二人で穴の中へ逃げこみました。火の手は上がり、枕木は燃えていました。はだしで道ノ尾まで行くと、「どこへ帰るの?」と聞かれたので、「西山水源地へ帰りたい」と言いました。もんぺはボロボロでした。はだしで帰ったら危ないと、縄で編んだげたをもらいました。「絶対、水とか、落ちてる果物は食べてはいけない」と言われました。そこからずいぶん歩きました。
 
【被爆後の惨状】
見られたものではありませんでした。実際に見た人でないと分からないと思います。死んだ人、目を開けたまま死んだ牛、馬。トウガンを枕にして、「水くれー水くれー」という人。死んだ人も、横になっている人も、またいで行きました。今、かいつまんでは話出来ますけど、話したくないです。昔はおかっぱ頭にするので、うなじの辺りがみんな焼けただれていました。戦闘帽をかぶって外で仕事していた人は帽子より下の部分をやけどしていました。その後水ぶくれになったり、顔が黒くなったり、いまだに顔の半分が黒い人がおられます。まだ私は傷がないだけ喜んでいます。二度とあんなことは嫌です。
 
【後遺症について】
鼻血が、結婚し子どもが出来るまで出ました。髪の毛も抜け、喉が腫れて、目が飛び出た状態が続きました。そして、胆のうの手術もしました。

【結婚時の不安】
子どもへの影響はやはり気になりました。何人か縁談の話ありましたが、被爆者は体の不自由な子どもができるから、と断られたこともあります。主人は、体の不自由な子どもができたらできたで、それも運命だから、いいと言ってくれました。年が離れているという問題はありましたが。子供ができると、主人から「体の不自由な子どもができたらかわいそうだから、今のうちにおろせ」と、生むまで言われましたが、生まれた子どもの顔を見たら喜んで面倒見てくれました。

【今も病気が心配】 
狭心症を20年患っています。不整脈があり、最近はどうきがひどく、早鐘を打つみたいになりました。病院によく行くと、医療費がかからないから病院に行くのか、被爆者だけが病気をするのではない、手当ももらっていると言われたりします。戦争の時に傷ついた私の気持ちも分からない人にそう言われます。話をしても受け入れてもらえないので、話はしませんが。
 
【原爆投下への怒り】
もう、絶対してはいけません。私たちで、これで終わらせてもらわないといけません。二世、三世に後遺症が出るという話をいまだに聞きます。ベトナムのべトちゃんが出ていたらテレビを切ってしまいます。見たくないです。あの死んだ人の姿見たら、なんとも言えません。こんな話すると夜も寝られません。目に焼きついて。
 

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