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中村 昭子(なかむら てるこ)
性別 女性 被爆時年齢 18歳
収録年月日 2004年  収録時年齢 77歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:3.0km) 
被爆場所 三菱重工業㈱長崎造船所 飽の浦工場(長崎市(飽ノ浦町)[現:長崎市]) 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 三菱重工業㈱長崎造船所 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

中村昭子さんは当時18歳。爆心地から3キロの飽ノ浦町で被爆しました。直後から重い症状が続き、さらに結婚後はひどい差別を受けるなど、障害を持つ子どもを抱えて何度自殺を図ろうとしたか分かりません。今も原爆の傷跡を引きずっています。
 
【被爆前、どんな仕事を、―】
女学校を卒業後に動員された人はてい身隊と言います。また学校から動員として来た人を報国隊と言います。私は女学校卒業と同時に行きました。長崎造船所に行ったのは、昭和19年3月末でした。仕事を始めたのが、4月の8日頃です。生活は不便でしたが私は造船所におりましたから、食べ物は皆さんと一緒でした。 秘密書類ばかりあずかっていて仕事は中々覚えられませんでした。1カ月くらい、電話のかけ方、アルファベットや数字の書き方を勉強しに、青年学校の訓練所に通いました。検査係の機械課で、軍艦のタービンの図面書きをしていました。
 
【被爆の場所は】
3キロの所で被爆しました。大波止という所から長崎の方に船で毎日通っていました。
 
【被爆当日の朝】
朝7時頃、造船所へ行って事務をとっていると、警戒警報が出てその後すぐ空襲警報になりました。とりあえず近くの、鉄筋の倉庫のようなものを壊してつくった防空ごうに「警戒警報になるまでいよう」と避難をしていました。しかし段々とひどくなったので遠くの防空ごうに避難しました。防空ごうは5つありました。防空ごうに入る時に上をのぞくと、真っ黒い風船みたいなものが浮いていました。何だろうと思いましたが、何も分かりませんでした。「広島に落ちたピカドンかもわからんよ」とみんなで話しました。
 
【被爆の瞬間】
時計を見て11時頃だなと思いました。そこで火の玉のような何ともいえない光がパッと目の中に入りました。ガラス窓がメチャクチャに割れ、松の木は全部根こそぎ倒れました。私は鍵をかけて避難しようとして逃げ遅れ、書類棚の下敷きになりました。友達が出してくれましたが、手当てをしなかったので今でも額に傷跡があります。下敷きになっている時、5分か10分の間は意識がありませんでした。そして、造船所の中の診療所へ傷の手当てしに行きました。診療所の中には、頭から脳みそが出てしまって3、4人で頭を押さえてもらっている報国隊の人がいました。「私の腕がない腕がない」と泣いている13、4才くらいの娘さんもいました。骨も何も全部取れて、肩から皮だけが付いていました。肩がブラブラと幽霊みたいに動いていました。水ぶくれで、手も足もないような状態の人も見ました。
 
【被爆直後の惨状】
道は死人だらけで、歩く所もないので死人の上を歩いて行きました。赤ちゃんを背中におぶって死んでいるお母さんを見ました。目玉は飛び出し、鼻はゆがんでいるかなくなっているか、口は裂けている、そんな人たちばかりでした。焼けただれ、身がろうそくみたいに全部ぶら下がって、骨しか残ってませんでした。「水を下さい」と言われましたが黙って行きました。水を欲しがる被災者が、水を飲むとみんな亡くなってしまいました。「まあ、恐ろしいなあ」と思いました。見ると私はズボンから下が全部溶けてしまっていました。靴下もズボンもモンペも靴もありませんでした。足が痛いなと思うとはだしでした。途中、黒い雨が降ってきました。「皮膚に黒く残るよ」と友達が言いました。それから道がわからなくてその辺を3時間くらいさまよいました。線路があめのように曲がっていました。何とか3人で寮に帰り着きました。お寺に行くと、所狭しと死人が積み重ねてありました。目は飛び出し、口は裂け、手はない、そんな人ばかりが寝ていました。
 
【被爆後の症状】
宮崎に帰って20日くらいして症状が出ました。髪の毛が1本、2本抜け、その内にガバガバっと抜けて丸坊主になりました。疫痢みたいに血便がずっと出ました。母親が「かわいそうに、つらかったやろなあ」と敷布を破って帽子を作ってくれました。弟や妹に病気がうつったらいけないと漬物小屋に隔離されました。土間なので、蛇やミミズやトカゲが出てくる所にむしろを敷き、一カ月間寝ていました。
 
【被爆者への差別】
差別はありました。最初に嫁いだ所は、体が弱いのでとてもいられるような状態ではありませんでした。二度目の結婚の時、被爆者であるということは話しました。子どもは生まれる時の障害で、酸素が十分に行きとどかず、知的障害になりました。でもその子はがんばって働いています。私は「障害者だ」と言われました。私が病院へ行くと「国の税金で、病院に行っている」と言われました。買い物をすると、「国からもらったお金で何、買ったの」といじめられました。私は耐えられず、子どもを背負って鉄道自殺をしようと思い2時間くらい歩いて駅まで行きました。駅長さんに声をかけてもらい、思いとどまりました。しかし、帰ると今度は小じゅうとやみんなから言われて大騒ぎになり、また子どもを背中におぶって、漬け物石を両足に縛り付けて川に飛び込みました。国のために一生懸命働いていただけで、好きでこんな体になったのではありません。みんなに顔を見せるのが嫌だから、夕方4時か5時頃から戸を閉め、音をたてないようにして、子どもと3人で生活してきました。
 
【原爆投下への怒り】
絶対やってはいけません。被爆者は私たちだけで結構です。被爆者を二度と作るな、核兵器を持つな、平和を保て、それをずっと唱ってきました。何年生きられるか分かりませんが、「ああ、よかった」と死んでゆきたいと思っています。どんなことがあっても生き抜いていこうと思います。がんばりますので、どうかみなさん応援してください。
 

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