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早川 みはる(はやかわ みはる)
性別 女性 被爆時年齢 15歳
収録年月日 2006年9月27日  収録時年齢 76歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:1.3km) 
被爆場所 三菱重工業㈱長崎兵器製作所 大橋工場(長崎市大橋町[現:長崎市文教町]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 長崎県立長崎高等女学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

早川みはるさん、当時15歳。長崎高等女学校の学生でした。爆心地から1.3キロ離れた大橋町の三菱兵器工場で、学徒動員中に被爆。一瞬にして崩れ落ちた建物から抜け出し、裏山へ。大きな火柱の上がる自宅の方向を見ながら、家族の安否を気遣いました。長崎市内の竹の久保町一丁目に住んでました。その前は、街中に居ましたが空襲による火の広がりを恐れていました。それで、被爆の3ヶ月前に少し街から離れた竹ノ久保町に引っ越しました。食糧難で母が、随分苦労してました。兄も学校で体育の時に、体が動かなくて困ると言っていました。私は下痢が続いていたので、8月9日の朝はコウリャンの入った朝ご飯を食べずに出たのを覚えています。
 
【8月9日】
爆心地から1.3キロの所に有った大橋兵器工場で、事務をしていました。木造建物のガラス戸近くに居ました。光った時は、私の隣に居た友達が手足の火傷が酷くて、水膨れで歩くのも大変でした。私は、友達の内側に居たのでガラスの破片で頭を怪我したぐらいで、火傷も肘の部分に少しですみました。工場の建物が離れていたので、皆現場で男の人の仕事を代わってやっていました。工場で機械の下敷きになって亡くなった人が結構いました。私も下敷きになりましたが、友達と抜け出して山へ避難しました。真昼間なのにとても暗かったです。その暗い中を、工場の人達と一緒に歩いて山を登りました。上級生の人が、鼻柱が二つに割れて酷く苦しい息をしていたのを覚えております。
 
山の上で一晩寝たんですが、寝られませんでした。家の方向を見ると火柱が高く上がっていて、家族3人の安否がとても心配でした。翌日になって焼け跡を友達と2人で、少しでも家の方へと向かいました。家に行きたくても火の勢いが強くて近づけないんです。諦めて親戚の家の方へ向かいました。親戚の家は、工場の側で浦上川の直ぐ横に有りました。工場は、コンクリートが飴のように溶けて骨材が残っているだけでした。少し街中に入ると、完全に焼けた白い骨を目にしました。少し焼け残った所では、真っ黒な死体が泥人形のように並んでいました。40歳位の友達のお父さん達が、泣きながら身内の名前を呼んでました。お母さん達はとても歩ける状態では無かったのです。大人が泣きながら歩く姿を初めて見ました。
 
私の父は、とても生きてないだろうと思いながら親戚の家に向かいました。親戚は爆心地から離れていたので、家は少し壊れたくらいでした。そこに戦災に有った人達が集まって来ていました。翌日、兄がよろめくような足取りでやって来て、「母を助ける事が出来なかった」と言いました。兄は「父は即死で助けることができなかった。鋸一本有ったら母を助けられたんじゃないか」と、10日後に亡くなるまで悔しがっていました。母は、梁の下敷きになったそうです。火の回りが早くて母に逃げるよう言われて、兄は仕方なく避難したそうです。
 
父と母が、私達が居ない間に家の庭を掘って、色々な物を埋めておいてくれたんです。数日後、兄と2人で家の焼け跡まで約6キロの道程を歩いて取りに行ったんです。最初に、兄の医学書を運び出しました。初めのころは兄も元気でしたが、2,3回繰り返した頃に体調が悪いと言い出しました。それから、兄が寝込んで苦しみ始めました。下痢や嘔吐が始まり、皮膚にも膿んだ出来物が出来て、何も食べられなくなりました。口の中にも、口内炎のような出来物が一杯できて、熱が出て苦しみました。「肺に水が溜まるので注射器で取ってくれたら楽になるんだけど」と、兄は言っていました。そして私に「子守唄を歌ってくれ」と言い出したんです。子守唄を歌ったんですが、泣き出してとても続けていられませんでした。そしたら、今度は祖母にお経を教わって大きな声で唱え始めたんです。私は兄が狂ってしまったのかと思いました。そして声が出なくなって息を引き取ったんです。熱が高くて、吐く物も緑色で、下痢も青い色をしていました。
 
体の大きな兄は、両親の自慢の兄だったんです。妹1人残してどうするのと、皆に言われていましたが、耳に届いてたかどうか分かりません。私は兄だけは生きててくれるよう祈っていました。目の前で苦しみ抜いて死んでいった兄が、どこからか出てきてくれるような気がして諦めがつきませんでした。原爆孤児になって、友達の家族や先生、皆亡くなりましたが、私は1人じゃないと思いながら我慢していました。
 
【伯父のいる神奈川へ】
神奈川の親戚が迎えに来てくれました。医者だった叔父が、私を看病してくれました。そのお陰で、私は少しずつ元気に成りました。1人になると、どうしてあの時、一緒に死ななかったのかと考えて、悲しい思いで過ごしていました。伯父の家は、母方の祖母と母の妹である叔母など全部で13人家族の賑やかな家でした。そのお陰で、少しずつ皆と一緒に笑えるようになりました。でも飛行機の音がすると、机の下に逃げ込んだりしていました。どこへ行っても天井を見上げて、ここなら大丈夫かなと確認していました。下敷きになった苦しみを忘れる事が出来ませんでした。
 
【その後の体調】
私が最初の子供を生んだ時、医者の伯父は二度と立ち上がれないだろうと言っていたそうです。自分ではあまり気付かなかったんですが、普通の人の体ほど健康ではなかったんだと思いました。病気は盲腸炎、胃の部分切除、筋腫、胆嚢炎、乳癌と5回手術しました。
 
【伝えたいこと】
あの原爆が無かったら家族や友達、先生も皆元気で普通に生活をしていたと思います。それこそ、一瞬にして何もかも無くなってしまうんです。亡くなった人達には、家族も友達もいて、大勢の人が悲しんだんです。原爆は普通の戦争と違って、ずっと後遺症が続く厳しさもあります。これはもう、無くさないといけないと思います。
 

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