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原 一(はら はじめ)
性別 男性 被爆時年齢 15歳
収録年月日 2003年10月30日  収録時年齢 73歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:1.5km) 
被爆場所 長崎市西郷[現:長崎市] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 佐賀県立伊万里商業学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

原 一さんは、当時15歳。爆心地から1.5キロの西郷で被爆しました。家の下敷きになり、火の中をやっとの思いで脱出。大村海軍病院へ運ばれ、一命を取りとめました。
 
【当時の住居と仕事】
学徒動員で三菱兵器工場の寮に住んでいました。今は白鳥町という地名ですが、以前は西郷町にある西郷寮と言っていました。三菱兵器工場では魚雷作りをしていました。圧搾空気を入れる直径50cm、長さ1m50cm位の「気室」という部分を削っていました。

【被爆の瞬間へ】
寮はペシャンコで、私はそこからはい出しました。私は前の日が夜勤だったので9日の朝、工場から寮に帰ってきて熟睡していました。空襲警報が出たり解除になったりで、防空ごうを出入りしていましたが、解除になったので寮で寝ていました。熟睡して、原爆の時は全然気付きませんでした。

寮はペシャンコになっており、食堂の方から燃えて、その火の熱さで気が付きました。熱さで気が付きましたが、瓦で体が埋まっていたので、手を開いて上から順に瓦をはぐってやっとはい出せるようになりました。体の下の方にも瓦がいっぱいでしたので、苦労しました。9日の朝に寮に帰って食事をした後、寝ていました。だから、原爆が落ちたのは全然分かりませんでした。
 
【裏山へ避難】
私が出てきた時は誰もいませんでした。みんな避難した後に私がはい出してきたのです。そこまで火が来ていたので、裏の山へ避難しました。私が一人で起きて山の方へ歩いていくと、既に避難していた人が私を見つけてくれました。そういう状態でした。

【被爆による負傷】
上半身前面全部やけどしました。顔も、目と鼻と口だけ残して上半身全部包帯を巻きました。両肩、両腕、胸にケロイドが残りました。
 
【救援列車で大村の病院へ】
私たちは運良く、救援列車で大村の海軍病院に、わりと早く搬送されたのでベッドに寝られました。後の人は廊下に寝ていました。私たちの工場の大部分はトンネル工場に移転していたので、その人たちは割合元気なのです。(原爆が落ちてトンネル内の)電気が消えてなぜだろうと外に出た時にはもう、寮はペシャンコになっていたそうです。その人たちが私たちを介抱したり列車に乗せてくれたりして大村海軍病院に降ろしてくれました。
 
【何が起こったと】
何が起こったか分かりませんでした。6日の広島のことを7日の新聞で見て、新型爆弾ということだけは分かりました。

【病院での療養生活】
病院には半月くらいしかいませんでした。8月の末に友達が来ました。行方不明だったので、大村海軍病院も回って見つけに来てくれました。大村海軍病院には、5、6名来ていました。そのうち何人かは途中で帰りましたが、残る人たちで私をここまで連れて帰ってくれました。竹の担架に乗せて有田駅まで連れて帰ってくれました。駅からはリヤカーで家まで帰りました。途中、珍しさで近所の人がたくさん寄って来ていました。

【家族との再会】 
大村海軍病院に私が入った翌日の晩に母親が来てくれました。私の叔父は私が大村駅に降りたことだけを頼りに大村中を捜したと言っていました。その晩遅く、私が寝ている時母親の呼ぶ声で目が覚めました。見舞いに来てくれたのは、母親が一番早かったです。
 
【学徒動員、仲間の犠牲】
当時、150名のうち、学徒動員や予科練、今予科練と言っても若い人は分からないと思いますが、他に少年飛行兵と合わせて40名くらいいました。病気で自宅療養している人が30名位いました。原爆を受けたのは150名中80名くらいです。その内、即死、半年以内に死んだのが13名、現在まで62、3人死んでいます。それで行方不明まで合わせると半分は分からないですね。
 
【辛かったこと】
友達を亡くしたことです。同級生が城山小学校の校庭で即死しました。私がいた寮の跡地へ行きました。学徒動員では、伊万里商業、佐賀商業と後一校くらいあったと思います。私たちがいた寮も1000人以上いました。寮の跡地は、運動場になっており、記念碑が立っていました。
 
【今、被爆症状は】
今は、病院の通院カードを5、6枚持っています。最近では、血圧が悪いので、10年以上薬を飲んでいます。最近では昨年の8月、前立腺肥大の手術を受けました。今年の7月に大腸ポリープを取りました。原爆の影響で言えば、熱さ、寒さ、湿気に弱く、梅雨時期の風呂上りは、しばらく裸でいないといつまでも汗が出ます。
 
【結婚時に被爆体験を】
私は(被爆者であること)言いました。妻も理解してくれました。妻の実家が諫早で、その母親が婦人会に属しており、原爆で被災された人たちを介護したり、付き添ったりしていたのも理由かもしれません。

【戦争を知らない世代への語り】 
被爆から50年、100年たったら若い人たちは全然分からないですよ。だから語り継いでいかないといけないと思います。そこで話をしても通じませんでした。知っているものと思って予科練と言っても、「何ですか?」と言われます。ひとつずつ注釈を付けていかないと今の若い人は分からないですね。空襲警報も防空ごうもピンと来ないですね。
 
やはり原爆は使ってはいけないと思います。
 

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