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深堀 寛治(ふかほり かんじ)
性別 男性 被爆時年齢 12歳
収録年月日 2012年10月25日  収録時年齢 79歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:1.7km) 
被爆場所 長崎市(本原町)[現:長崎市] 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 山里国民学校 6年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

深堀寛治さん、当時12歳。爆心地から、およそ1.7kmの本原町で被爆。原爆のせん光を浴び、顔が風船のようにはれ上がりました。やけどをした傷口にはウジがわき、ケロイドが残っています。生かされているのであれば、被爆体験を話そうと証言活動を始めました。子どもや孫に自分と同じような体験をさせたくない、核は全廃してもらいたいと訴えます。
 
【被爆前の暮らし】
家族は9人で、私は三男坊でした。下に妹が4人いました。私は当時国民学校の6年生でした。食糧事情が非常に厳しい時で授業はほとんどなく、実習という名目でグラウンドを耕していました。だから勉強はほとんど学校では出来なかったです。やるとすれば、忍耐力のつくような、そういう我慢をするような教育ばかりでした。
 
もともと長崎というところは、よその都市と比べると空襲が少なかったのですが、それでも6月、7月になると激しくなってきました。私の家は地形的に見ると、港の方から三菱造船、三菱電機、三菱製鋼、そして色々な三菱の軍需工場や三菱兵器があり、その線上にありました。だからB29の爆撃の航空ラインの線下にあったわけです。それで父は、「このラインからたとえ200mでも500mでも横に逸れないと非常に危険だ」と言いました。当時、私は6年生で、一応戦時教育を受けていたので、「父が疎開するぞ」と言った時、「何か逃げるみたいで嫌だ」と言いました。「2か月のうちに色々なことの結論が必ず出る。だから2か月我慢しろ」と父が言い、何も持たずに母方の実家の納屋に引っ越しました。
 
【8月9日】
父は三菱重工業株式会社 長崎造船所に行っていました。長男は学校からの報国隊でどこかの軍需工場へ行っていました。その次の兄は近くのおばさんの家に手伝いに行っていました。10時ごろ警戒警報が鳴りました。「あー、またすぐ解除になるよ」などと言い、もう慣れっこになっていて、びくびくはしませんでした。しばらくして、11時ちょっと前に空襲警報に変わりました。私は自分たちが作った横穴の小さな防空ごうに入りました。そこへ入ると空襲警報が解除になりました。みんな「よかった」と表に出てきて喜んでいました。
 
長女の恵子は裏にあった仮設の炊事場で母と一緒にお昼の準備を手伝っていました。ほかの妹は、ちょっと離れたところに二人寝ていました。1歳の妹は台所の近くで寝ていました。私はその軒下で祖父が私のわら草履を作ってくれるというので一緒に座っていました。すると爆音がブーンと聞こえたのでそちらを見ると、東の方に小さな機影が飛んで来ました。夏の暑い日だったのでキラキラ光っていました。その銀翼の機がB29だとは思いませんでした。あれは友軍機で、あの戦闘機が敵機のB29を追っ払ってくれたのだと思いこんでいました。高く飛んでいたので小さくしか見えず、分からなかったのです。
 
それがずっと東の方から西の方に来た時、軒で飛行機の機影が隠れる直前に落下傘みたいなものを落しました。「おかしいな、あっ、これは零戦じゃないな」と直感しました。そして飛行機がこちらの軒に隠れた時にバチッときました。同時にグワーとすごい爆音がしました。飛行機が目いっぱいにエンジンをふかした音だと思いました。その音がしたと思ったら光がバチーっと来ました。一瞬何が始まったのかと思いました。「あっ、これは庭先に何か落ちたな。焼い弾かなんか落ちたな」と思いました。
 
逃げなければいけないと立ち上がろうとした時に、次の大きい音が下の方からグワーとしました。あんないい天気で明るかったのに急に真っ暗になって、どうなったのか全然分かりませんでした。光のあと爆風がちょっと遅かったので、腰を抜かしたみたいに動けませんでした。それでこれは下敷きになっているかも分からないと思い、手でこうやったら、上の方から空の明かりがぱっと見えました。ここから逃げられるかもと思い、ガレキをどかしてはい上がりました。
 
表へ出ると母が仮設の台所の方にいました。母は顔や胸のあたりをガラスの破片で切って、髪は血でこうなっていたので、どこの人か最初は分かりませんでした。壊れた家の下には小さい妹たちが昼寝をしていたので、「助け出してくれ」と言いました。しかし助けようと思っても一人ではなかなか無理でした。すると隣のおばさんの家にいた中学生の兄が走って来ました。当時は食糧事情が悪く、ジャガイモを鍋で七輪にかけて煮ていました。それがひっくり返って煙が出てパチパチ音がしていました。早くしないとみんな焼き殺されると思い、私は兄と2人で夢中で妹たちを助け出しました。5歳の玲子は、ここのところにはりが落ちて陥没して、しばらくは植物人間でした。
 
私が兄たちと一緒に防空ごうに行こうとした時に、私の名前を「寛治」と呼ぶ声が聞こえました。誰だろうと思ってそっちを見ると、ダルマさんのような人がいました。その人の耳は飛んだようになっていて、髪の毛は無く、顔も頭も赤身で、目玉だけがぎょろっとしていました。向こうは一回だけ私の名前を呼んだのですが、私は声をかけようにも誰だか分かりませんでした。結局、私は一言も声をかけられませんでした。そのままその人は、このようになってしまいました。
 
それからいつも遊んでいた山道に行くと、小さい木は何でもないのに、大きい木が倒れていました。「おかしいな、これは普通の爆弾じゃないな」とその時に思いました。非公式にたった二日前の広島のことが耳に入っていました。「新型爆弾が出来た。どっかの都市で落とされたらしい」ということを聞いていました。しかしそのようなことをうっかりしゃべると、思想的にあおるということで特攻警察に捕まります。それでもみんながコソコソとしゃべっていたので、もうその話は耳に入っていました。
 
「新型爆弾というのはこれかな」と、子どもながらにそのときピーンときました。その山の中でどうしょうかと思っていたら、雨が降ってきました。雨といっても、パラパラパラパラという感じで、何だろうと思って手をこうやると、黒いのがプツプツプツプツと手に当たりました。私はその時、飛行機から石油かなんか油をまいたと思いました。「これでは逃げても逃げても焼き殺される」と思い、とても怖かったです。しばらくするとその雨はすっとやみました。それで私は落ち着いて下の本通りの方へ下りて行きました。
 
下の通りに出ると、みんな表皮が垂れ下がってこんなことをしていました。やはり触ると痛いからこうやって、どうしても手を浮かせていたのです。別におばけの格好をしていたわけではないのです。兵器工場に行っている長崎純心高等女学校の4年生、5年生の16、7歳の子が、生き地獄のように、みんな傷ついてそういう格好で道へ下からどんどん上がって来ました。そのうちにやはり、ぱたっと倒れました。倒れるともうそこからは動きませんでした。
 
下は延々と炎がえんじ色みたいになっていました。時間はそんなにたっていないのに、あんなに晴れて明るかったのが夕暮れみたいな感じになりました。その帯状になったえんじ色が、夕暮れみたいに空に映っていました。その光景は地獄だなと思いました。あのような光景は初めて見ました。
 
けがをした人はたくさんいました。私は自分たちが掘った防空ごうで家族と合流しました。夜はそこで寝ました。父は三菱造船に行っていたのですが、夜はこの道を通れないので山越えをして帰って来ました。夜にはみんな帰って来ました。一応はみんな助かりました。しかし私の隣にいたおじいちゃんは亡くなりました。おばあちゃんもそのあとすぐに亡くなりました。
 
【けがの容態】
朝起きると私は目が見えなくてびっくりしました。「目が見えない」と私が騒ぐと、「どうした」と兄や母がやって来ました。顔が風船みたいにはれて、目がふさがっていました。目を開けているつもりが、顔がふくれ上がっているので目が開きませんでした。当然口も開かなくて、こっちはいくらか開いたので、こっちの方から麦わらを入れて、水だけは飲ませてもらいました。
 
あれで何とか生きたのだと思います。このへんからこうずっと頭にかけてやけどをしていました。手も、こんなになりました。こちらから熱線が来たので、こうしていたからこちら側からこう当たって、これがこちら側から、こちらの裏側はなんともありません。これがはれてパンクしてうみが出ました。
 
しばらくするといくらか目が見えるようになりました。朝起きるとウジ虫がはっていました。別に痛くもかゆくもありませんでした。ウジ虫は、ここの関節のところに頭から潜りました。これが痛くて「いてぇー」と叫ぶと、「どうしたんや」と兄が来て、取ってくれようとしました。しかし半分潜っているとなかなかうまく取れませんでした。
 
【自宅へ戻る】
私たちは自宅へ戻りたくありませんでした。もう60年、70年は住めないという噂がぱっと広がっていました。私のまわりでもみんな、歯茎から血が出た、髪の毛が抜けたという症状でした。すぐに長崎に帰って来た健康だった人も全部そうなりました。当時はまだ放射線の影響だということが分かっていませんでした。でも父は草木がすごく勢いよく生えてきたのを見て、「生物がこれだけ生えるんだったら大丈夫だ」と言い、まだ一軒も家がありませんでした。
 
私は手伝いが出来ませんでしたが、父と長男と次男の3人で色々な材料を拾ってきて、被爆後1か月か2か月ぐらいで自宅のあとにバラックを建てました。私の家には井戸があったので別に水道を使わなくても暮らせました。うちが一軒そこに戻って来たら、2か月、3か月すると、ぽつん、ぽつんと5、6軒の家が建ちました。もちろんみんなバラックでした。
 
【ケロイド】
当時はまだ、これと顔が1センチぐらい盛り上がっていました。今は平らになりましたが、こうなっていたから見苦しかったと思います。だから長崎にいたのでは被爆者ということがすぐに分かるので、大好きな長崎を捨てたわけではないのですが、何も関係ないところに行こうと決めました。被爆者はもう今は年を取って違いますが、若い時はほとんどみんな被爆者だということをしゃべりませんでした。わざわざ自分から言う必要もないと思っていました。本当は逃げていたのかも知れません。だから卑きょうかもしれません。
 
私たちの結婚は紹介でした。恋愛といってもやはり顔に傷があると女の人も嫌がるでしょう。だから恋愛とかそういうのはあまり考えず、全精力でがむしゃらに仕事をやり、認められて結婚しました。私はこの前、東京都の副知事の懇談会に行きました。その時に私は、「67年間、傷ついたケロイドを、人目を避けるようにして来た。しかしそれに対する認定というものがない」と言いました。
 
【証言活動】
被爆者ががんになるとよく言われます。私はずっとがんにならずに、「原爆に勝った」などと豪語していました。しかしやはり大腸がんになって、原爆には勝てませんでした。「手術しましょう」ということで手術している時に、医療ミスで腹膜炎になりました。原爆でも死にかけ、そして今度はいよいよ召されるかと思いました。しかしやはりまだもうちょっと生かされました。生かされたのだったら、少しは話してもいいかなと思い、3年ぐらい前からあちこちでしゃべっています。今年も7月、8月、9月に、約1時間の証言を頼まれて行きました。みんな真剣に聞いてくれるので、「ああ、よかった」と思っています。
 
【核について】
福島の原発事故は腹立たしく思っています。広島、長崎の教訓が全然生かされていません。核は全廃にしてもらいたい。そして原発もなくしてもらいたいというのが私の望みです。それは強く思っています。もう子どもや孫にこういう思いをさせたくはありません。
 

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