深堀 弘泰さんは、当時20歳。原爆投下時には国鉄(運輸省門司鉄道局)職員として、長崎から5キロの郊外におり、一命を取り止めましたが、自宅は跡かたもなく、家族は犠牲になり、その後、苦難の道を歩みました。
【当時の住居と家族】
長崎市城山町一丁目にいました。爆心地から1.2キロぐらいの所です。城山町で生活していたのは兄弟二人と母です。それに5月頃、母の妹の叔母一家が疎開してきました。だから合計10人ぐらいになっていました。
【被爆時の仕事は】
18歳で国鉄(運輸省門司鉄道局)に入社し、当時は長崎管理部の総務課にいました。長崎管理部はもともと長崎市の出島に庁舎がありましたが、失火で長与村に疎開していました。そこで、長崎管内の指令塔業務を行っていました。
【被爆の瞬間】
11時2分が原爆投下の時間ですが、長与村にいてもその何秒後に空が一瞬真暗になり、近くに大きな爆弾が落ちたような状態でした。皆一瞬にして机の下にかがみ、その何秒後に爆風が部屋中を吹き抜けて窓ガラスは粉々なり、窓枠も吹き飛びました。私たちは、机の下に屈んでいたおかげで皆けがをしないで済みました。かがんで避難し損なった人たちはガラスの破片でたくさんけがをしていました。原爆投下で列車も壊れ、窓ガラスも吹き飛び列車内のお客様もたくさんけがをしていました。
【直ちに救援列車を】
長与駅は壊滅状態でどういう状況になっているのかわかりませんでした。被害者がたくさん出ていたので、急きょ、長与駅に停車していた列車を救援列車に仕立てて長崎方面に向かわせました。駅から長崎市を見た時、何も残っていませんでした。建物や工場もあったし、たくさんの民家があった辺りも一面何もなくなっていました。線路の状態もこれでは全然保障できないので、手旗信号で「オーライ、オーライ」と合図しながら長崎市内に入りました。向こうから真黒い人たちがたくさん歩いてきました。皆服を着ておらず、顔も手も真黒でした。道は、民家が焼けて吹き飛んだがれきで塞がれていましたから、唯一歩ける道は線路でした。その線路伝いに郊外へ避難してくる被災者の人たちが何百人もつながって見えました。
【被災者の救援と惨状】
当時は諫早と大村に海軍病院がありました。その病院へ被災者を運ぶため、列車を停めて被災者を乗せようとしました。線路から客車のデッキまでは高く、私たちでもやっと上がれるくらいでした。被災者は全然力が残っておらず、ただ、つかまるだけで、上がりきらないので、私たちが抱き上げようとして驚きました。手、顔もやけどし、皮膚がはがれて垂れ下がっており、胸はやけどがむき出しで中の赤い肉が見えていました。もちろん顔は目が見えるか見えないくらいにふくらんでおり、そういう人たちばかりなのです。洋服は焼け焦げて、着ている状態ではないし、その人たちを助けあげようとしたら、皮が私の手にべっとりはりついて赤い肉から血がにじみ出るのです。
被災者に「痛い、助けてください」とずいぶん泣かれました。私は、必死で客車に抱えて上げ、救援列車1号は諫早に向かいました。諫早の人たちは被災者を助けようとして皆ホームに出て待っていました。諫早について被災者を降ろそうとしましたが、全然降りてきませんでした。降りてこないから中に入って見ました。そうすると、もう半分以上が列車で亡くなっていました。だから実際は列車の中で亡くなった人たちをホームへ降ろしてマグロを並べるように死体を並べて諫早や大村で火葬しました。
【自宅跡で家族と再会】
城山町の後方から私の家が見える所まで行きましたが、場所が違って見えるほど、様相ががらりと変わっていました。確認できるものは何もなく、我家らしきところにたどり着くとまだ、火が残っていて我家はまったく焼けてしまっていました。焼け跡だけが目につき、家族がどうなったのかわからないので、家族を探しに近所を歩きました。町内に防空壕があったことを思い出しました。もしかしたら、そこにいるのではないかと思いました。その防空壕は崖をくり貫いた50人ぐらい収容できる大きな防空壕でした。
そこを訪ねると叔母と妹が避難していました。妹は教えてもらわなければ妹だとわかりませんでした。どういう状態だったかと言いますと、肌の白い、将来美しい女性になりそうな妹でした。それが、顔を真黒に膨らせ、目はまったく開かないのです。後で話を聞くと、妹は、空襲警報が終った後だから、外で叔母の一番下の子どもを背中におぶって子守りをしていたらしいのです。そこで、原爆の光りを浴びたのです。背中の姪は一瞬にして即死し、妹はやっとのことで逃れてきて防空壕の中へ横たわっていました。ほんとうにこれが妹かと思うほどひどいありさまでした。その妹もその晩に亡くなりました。
一番下の弟は家にいたそうですが、翌日、焼け跡を掘りました。弟がいたらしい場所を探したところ下半身だけ焼け残っていたのです。上半身はまったく焼けてしまって下半身だけとなっており、あの時の状況は今でも忘れません。母は外出しており、茂里町で被爆したそうです。さいわい、家の中にいたおかげで外傷はまったくありませんでした。しかし、どこをどうやってあの劫火の中を母が我家にたどり着いたのか今でも不思議です。執念だと思いました。よくあの火の中を歩いてきたと思いました。母は夕方、私たちがぼうぜんと立っている自宅の焼け跡にひょっこりと姿を表しました。その時は嬉しかったです。母は助かったと思って本当にこんな嬉しいことはないと思いました。
【家族の犠牲 原爆への怒り】
母も後で亡くなり、叔母も亡くなりましたから、合計8名も家族が亡くなりました。皆殺されてしまいました。原爆がいかにあらゆるものの生命を奪い破滅の道に導くものであるかということは、(亡くなった人の)数をみてもわかると思います。もう、無差別殺りくです。原爆は後になればなるほど、怒りがこみ上げてきます。当時、母だけ残りましが、終戦後2、3日してから、とうとう、その晩に私の名前と私たち兄弟の名前を呼び続けながら亡くなりました。家族を亡くすことは本当に痛手です。家族を亡くした気持ちは今でもそうですけど、やはり一番大事なのは家族ではないかと思います。私たち被爆者は家族を亡くしたことで、核廃絶や平和に対する思いも人一倍強いと感じます。
【妹の遺体を焼く】
倒壊した民家の材木を拾い集め、川原に並べ8体か9体ずつ死体を並べて焼きました。私の妹を焼く時は、骨がすぐわかるように一番端に並べて焼きました。死体を焼く作業は三日三晩続きました。被爆の翌日に死体を焼いてくれた人たちは、翌日になると自分が焼かれる立場になっているのです。今まで元気だった人もいつのまにか死んでいる。放射線の恐ろしさというのは今考えても大変なことです。やけどのむごたらしさもひどいですが、外観には何も傷を受けていない人たちが翌日には生命を落としている。亡くなっているのです。この放射線というものがいかに人間の組織を破壊して生命を奪っていくものかということを現実にまざまざと目の前で思い知らされた感じです。
【命の大切さ、戦争の抑止】
大事なことだと思います。家族を亡くして初めて生命の大切さというものがわかったような気がします。これは何度言っても言い尽くせません。人の生命がどんなに大切なものかということを家族の中から思い知らされていったというのが、被爆者のたどってきた道だと思います。身近な人たちを大切にし、その人たちの輪を広げていって生命の尊さを皆に理解してもらいたいです。平和というものを、戦争はいけないということを皆が声を大にして言えるような世の中にならなければと思うのです。
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