国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME証言映像をさがす(検索画面へ)証言映像を選ぶ(検索結果一覧へ)/証言映像を見る

証言映像を見る
福島 カズ子(ふくしま かずこ)
性別 女性 被爆時年齢 16歳
収録年月日 2009年10月26日  収録時年齢 80歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:1.8km) 
被爆場所 長崎市東北郷[現:長崎市住吉町] 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

福島カズ子さん。当時16歳。爆心地から1.8キロ離れた長崎市住吉町で被爆。夜中12時から朝8時までの勤務を終え、寮で休んでいる時のことでした。気づいたら建物の下敷きになり、背中にガラスがささっていたという福島さん。落ちていた浴衣一枚を身につけ、火の海となった長崎市内を必死で逃げ、そして苦難に耐え、4日間かけてふるさとの壱岐に帰り着きました。もう一度母に会いたいという一心だったそうです。
 
【被爆前の生活について】
女子青年学校1年生の時、安定所の人から、皆夏休みに長崎の三菱兵器に、学徒動員として行かなければいけないと強制的に言われました。家庭に事情があって行けない人は仕方がないけれど、ほかに特に理由がない人は行きなさいと言われましたので、青年学校の生徒みんなで行くことになりました。
 
長崎県の壱岐の島から船に乗って、博多まで4時間かかりました。翌朝、初めて汽車に乗って、最初は長崎の道ノ尾という駅に着きました。壱岐の島を出たのも初めて、汽車や船に乗ったのも初めてでした。夜が来ると、本当に寂しくて布団の中で泣きました。それから寮まで歩いて行きました。寮に入ってから、両親に無事に着いたということを手紙に書いて出しました。明日から会社へ行かなければいけないと言われましたので、休み無しで、すぐに会社へ行き、いろいろ説明を受けながら仕事を見学しました。
 
【長崎での仕事内容について】
仕上げや機械の部署がありました。私たちは女子ですから最初は仕上げの部署でした。魚雷の部品を造る工場の仕事でしたので、魚雷の中の部品を磨く仕事をしてました。しかし、だんだん戦争が激しくなってきて、男の人が皆戦争に召集されていきましたので、その後は女子も機械を使わなければいけないと言われました。それで機械部に入り、グラインダーといって、魚雷の中に入る丸いものに、ボール盤で穴を開け、それをヤスリで全部こすり、ペーパーをかけて綺麗に磨く仕事をすることになりました。
 
【8月9日/被爆当日の様子】
私は、3交代のちょうど3番目で、夜中の12時から朝の8時までの仕事でした。あの日は朝8時に仕事が終わって工場から寮へ帰り、朝御飯を食べました。その後、また晩には仕事に行かなければならないので休んでいたら、何も知らない間に家の下敷きになっていました。家の下敷きになったから、目が覚めたのです。朝御飯を食べたままで寝て、目が覚めたのがお昼御飯前でしたから、ちょうど11時です。それでもう御飯どころではありませんでした。
 
長崎市内が焼け野原ですからね。私は下敷きになってから、目が覚めた時に、パチパチという火の音が聞こえたので、早く逃げないと焼け死んでしまうと思いました。原爆とは全然知らずに、何で私たちだけなのだろうと思いました。「先生、助けて、助けて」と何回呼んでも、誰も助けに来る気配がありませんでした。「みんな早く逃げようよ」と言いましたが、見まわしても全然すき間がありません。すき間を探して、どうにか自分の体が出られるまでにあけて、外へ出る事が出来ました。私の後から、2、3人が続いて出てくることができましたが、後の人はまだ部屋にいて、私の名前を呼んで、「助けてえ、助けて」と言っていました。多分焼け死なれたのではないかと思います。
 
私の体には、着るものが何もありませんでした。何も無いのです。上も裸だし、下も裸足と裸で、下着のパンツだけ履いてました。それだけでもあったので助かったようなものです。逃げる途中に、もう火が燃えてるから火の中へ飛び込もうかと思いました。しかし、せっかく助かった命だから、お母さんに会いたいと思い、やはり何とかして逃げようと思いました。あたりを見ると、洗濯物の浴衣が落ちていました。私はその浴衣一枚で命拾いしたようなものです。寮のすぐ近くにトンネルがありましたので、そのトンネルへ逃げました。
 
その晩は、トンネルの中で夜を明かしました。逃げる間に、いろんな物の焼け焦げたにおいや、人間や動物など色々なものが焼け死んだ死骸などを見たので、全然何も口に入りませんでした。その後は、何年もの間、鼻が全然他のにおいを受け付けないのです。その時のにおいだけです。ですから、何も美味しいと思えないし、自分で食べたいとも思いませんでした。長いこと困りました。何年ぐらいたってからでしょうか、どうにか他のにおいがするようになりました。それからようやく、御飯も食べれるようになったり、自分で作ってみたいと思うようになりました。
 
【8月10日/家族のいる壱岐へ】
一晩トンネルで夜を明かして、翌朝、寮が近くにありましたので、寮まで行きました。寮の先生は、「元気で家に帰れる人は、帰りなさい」と言われました。原爆が投下された時、私は伏せて寝ていたようで、上から落ちてきたガラスの破片が、背中一面に刺さっていました。大村の病院に行けば、ガラスの破片を取ってもらえるから行きませんかと言われましたが、私は自分の家に帰りたい一心でしたので、病院へ行かないで帰ることに決めました。お金も何もみんな焼けてしまい何もありませんから、寮の先生が罹災者の「り」を紙に平仮名で書いて下さいました。先生が、「これを切符がわりにして、汽車や船に乗って帰りなさい」と言われました。それ1枚を持って、長崎から壱岐まで4日間かかりました。
 
4日間、水一滴、御飯一口も食べずに帰りました。今でしたら、4日も食べないではいられませんけど、その時はお腹がすいたとか思いませんでした。その時は、とにかく自分の家に帰って、お母さんに会いたい、家族全員に会いたいというのが一番でした。帰る途中の4日間は、まだ戦争が終わってないので、空襲の間、船も汽車もずっと待機していなければいけませんでした。空襲警報が鳴ったらすぐ止まり、警報が解除になるまで止まっているのですから、4日ぐらいかかりました。博多の港に着いたら、ちゃんと壱岐に行く船がありました。
 
最初に、四、五十人が行きました。私は時間までに港に行ったのですが、時間前に船が出ていたのです。それで私たちは、取り残されてしまいました。5、6人取り残されたので、帰る途中に博多から呼子へ行きました。呼子からも、長崎へ行っていましたが、原爆に遭ってない人がみんな帰ってきていました。それで、私たちが裸、裸足で帰っているといことを聞いて、壱岐まで帰る間に、皆さんがお弁当を作って下さったり、服を下さったりしました。「まあ、気の毒じゃ、御飯もしっかり食べて」と言って、お弁当を作って下さいました。
 
それから呼子の人で、イカ釣り船の漁師さんが、イカを釣りながら壱岐まで行くから、船に乗せてあげると言って、用意して下さいました。それに乗ったとき、ああ、これで壱岐まで帰れると思いました。その船も空襲警報があれば、どこかの小さい島の陰に隠れたりしながら帰りました。船長さんが、「あんたたちは原爆に遭ってね、何も食べてないんでしょ」と言われたので、「はい、何も食べてません」と言ったら、「じゃあ船員さんの食料があるから、それでお粥か雑炊を炊いてあげるから、食べて下さい」と言われました。他の人は、おなかが空いているから食べていましたが、私は全然口に入りませんでした。
 
【壱岐に到着】
それで、4日間何も口にしませんでした。そして壱岐の島に着いたのが、4日目の夜中の12時です。私の家は山の手にあり、1人で歩いては帰れませんでした。郷の浦という町に、一緒に行った友達がいました。そのお母さんが、「気の毒にねえ、うちの子は、全然原爆に遭ってないけど、あんた達は原爆に遭ってかわいそうに。家には御飯はあるけど、おかずが無いから、ちょっと待ってて、隣に聞いてみるから」と言ってくれました。隣は薬局でしたが、夜中に奥さんを起こして、「何かおかずがない、今、原爆に遭われて帰ってらっしゃるんじゃけど、何にも食べてないらしいですから。うち、御飯はあるので、おかずがないですか」と聞かれました。
 
「ああ、そんなら昼のおかずだったらあるよ」「じゃあそれでよろしいから下さい」ということで、もらって下さって、そこで初めて御飯を食べました。4日ぶりの夜中の12時です。その時の御飯の味は今でも忘れませんが、本当にありがたかったです。それで、そこで一晩泊めてもらって、翌日夜が明けてから私の家に帰りました。
 
【家族との再会】
私が家に帰ったら、母は私がもう死んでいるものと思っており、遺骨をとりに行くために喪服を用意していました。そこに私が帰ったものですから、私が「カズコよ、カズコよ」って言っても、母が信じないで、「本当のカズコか、本当のカズコか」と、2回も3回も聞きました。だから「そうよ」と言って、親子抱き合って泣くだけ泣きました。
 
それから、私の背中の傷の手当てをしなくてはいけません。そのころ、私の家のすぐ裏の山に、まだ兵隊さんがいましたから、陸軍病院と兵舎がありました。軍医さんにガラスの破片を取ってもらおうと、陸軍病院に行ったのが一夜明けてからでした。そしたら、「毎日来なさい。このガラスの破片がとれて、完全に治るまでは3カ月ぐらいかかる」と言われました。
 
【被爆後の生活について】
ガラスが取れて治ったあと、今度は学校の先生が、「学校を卒業してないから、もう一回学校へ来ますか。3月まで来ることができれば、卒業証書をあげます」と言われました。「では行きます」と言って、それから青年学校を卒業するために、1学年下がっての学校生活を始めました。学校は21年の3月まで行き、卒業証書をいただきました。次は、就職先を探さなければなりません。壱岐で少し働きましたが、壱岐では余り収入が無いし、家には跡取りの長男がいましたから、居るわけにはいきません。
 
原爆に遭った人は、結婚できないとか、子供が産めないとか聞きましたので、それなら、どこかに働きに行かなければいけないと思いました。安定所で、岡山の茶屋町の染色工場を紹介され、長崎で生き残った人ばかりが、みんなで集団就職し、ここの茶屋町に来たのが最初でした。
 
【後遺症について】
一番最初は、出産後、まだ若いのに、歯がボロボロになりました。それで、全部入れ歯にしましたが、誰にもそんなこと言えないので、ずっと言わないでいました。それから、関節炎で両足の関節が悪くなり、20年ぐらいたった今も全然正座ができません。会社に勤めている間は、正座ができていたのですが、仕事をやめると途端に膝が悪くなり、それから今だに病院に通っています。治ることはありません。関節がもうすり減ってしまっています。だから、痛みどめの注射をしたり、薬を飲んだり、湿布をしたりで、ずっと病院と縁が切れません。背中の傷は、大丈夫です。これまで生きられるとは思っていませんでした。
 
【平和への願い】
今の子供や孫達が、戦争を知らず、平和な時代に、何にも不自由無しに大きくなったら、子供達のために良くない、やっぱりこの戦争のつらさを伝えなければならないと思いました。そして、戦争のつらさを若い子達に語り、戦争の無い平和な国がずっと続くようにした方がいいと思いましたから、語り部をすることにしました。もう歳をとっているので色々忘れることもあります。しかし他の事は忘れても、原爆のことは忘れません。やはり、つらい悲しい思いをしたことは、一生忘れません。
 

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの証言映像をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針