福田アキミさん、当時23歳。諫早の海軍病院に勤務。午前中の仕事を終えたとき、まぶしく光った直後に、大きな爆音を聞いたのです。長崎市内上空には、大きな、赤黒い雲が上がり、太陽が真っ赤に染まって見えました。大混乱に陥った病院で、必死の看護を続けました。
諫早駅の近く、田園地帯に病院がありました。諫早駅から5分もかからないくらい近くの場所です。私は朝礼をして職場に就きました。そして、昼になり、食事をするために食堂に行きました。そのとき、ものすごい大きな音が聞こえました。光が目の前でピカっと光りました。それで、何事かと思い外へ出ると、太陽が真っ赤に燃え、雲がもくもくとわき立っていました。それで、長崎に原爆投下の知らせが入りました。それからが始まりです。
その日、午前中は普通の仕事をしていましたが、それからしばらくして、長崎から患者が運ばれてきました。それから、パニック状態になりました。次から次に手当てをしなければならない状態です。応急手当てをして、包帯を巻きました。傷の応急手当てが中心でしたが、今思い返すと、むごたらしい手当てをしていました。マーキュロクロムという消毒液やヨーチンを使いました。これでは、今の時代のように清潔にはできません。それで、応急手当とは医学的にも考えられません。
しかし、向こうはもっと無残なものだと思います。駅から近かったので、病院にはある程度元気な人が連れて運ばれてきました。現地はもっと生々しい光景であったと思います。それでも、病院では患者を連れてこられ、今までみたことのない状況で大変でした。服は焼けただれ、全てがやけどをしています。鋭利で切られているわけではなく、被爆でやけどをしているのです。肉も無くなっているのです。それで、季節が夏だったので、ハエが飛んできて傷口にたくさん卵を産みつけるのです。惨めな状況でした。
しょうがなかったので、廊下に患者を寝かせました。ベッドも毛布を敷く程度です。そして、ものすごく臭いにおいが漂っていました。それは、いわば毒ガスです。私たちもそれをたくさん吸いました。私たちは第三者の立場でしたが、現地は生々しかったそうです。たくさんの人が川にはまり、水を欲しがったまま死んでいったそうです。ここの病院にはガラスの破片が刺さった人や、ある程度生きる見込みのある人が送られてきました。
【きのこ雲】
その雲はきのこ雲と言われていますが、もくもくといつまでも上がっていくようでした。太陽が赤黒く見えました。夕日なら沈むはずなのに、この時は沈みませんでした。太陽が真っ赤に、朝日以上に焼けました。みんなで何事かと思っていました。周りの状況は、食堂のガラスがバリバリと割れていました。
【胸に残ること】
「助けて」と言いながら、私の手を握ってきました。「アイゴー、アイゴー」と泣く声も聞こえました。当時、私はアイゴーという言葉の意味を知りませんでした。現在であれば、それが韓国語だと理解できます。そんな人たちのうめき声が、一番今でも耳に残っています。遠方から来ているのだから少しは優しくしてあげればよかったのですが、言葉をかけてあげられなかったです。「アイゴー、アイゴー」と聞こえても、その当時はわからないでしょう。今でこそ、アイゴーは、韓国の用語とわかりましたが、かわいそうでした。それで、日本だけではなく全国の人が平和で暮らしていければいいなと痛感しています。
【その後の状況】
入る人と出る人と交互になっていました。患者さんが入ってきて、それから助からなかった人の死後の処置をする状況でした。その繰り返しでしたが、助かる人は少数でした。今の時代なら、助けることができるかもしれませんが、当時は混雑して手当ても不十分でした。そのとき、病院を外出すると、外はいたるところで煙が上がり、その死骸や病人を焼いていました。男の人や兵隊が、亡くなった人を焼いて煙が上がっていくのです。本当に、あのときはものすごい状況でした。
【終戦】
終戦の日、みんな講堂に集まり、天皇陛下の話を聞きました。その場にいた人は黙ってしまい力が抜けてしまいました。私はこれからどうしていいのかと思いました。今までであれば、張り切って患者さんを早く戦地へ送り出していました。患者も一生懸命頑張って自分の体を治療して、戦場に出ようとしていたのです。だから、戦争が終わり、患者さんもだいぶ亡くなりました。入院している兵隊さんは、軍人だから私たち以上に気が落ちてしまったのです。本当にすごかったです。言葉で表すこともできません。今まで張り切って頑張っていたから、あの言葉を聞いた途端、ご飯も食べることができなくなったのです。
それで、終戦後も亡くなる人が多かったです。軍人も病院で詔勅を聞いて、仕事をする気もなくなったのでしょう。私も、患者さんどころか、自分たちがしっかりしなくてはいけないというような状態だから、本当に気の毒でした。それから私は、郊外の諫早にある自分の実家に帰りました。それで、縁があってこちらへ来た訳です。
【その後の体調】
少しでも悪いと思えば、すぐ診察に行きます。お金のことは二の次で、病院へ行って確かめます。もしガンだったら怖いですから。それで、もしガンであれば、処置してもらわないといけないし、ガンでなければ安心できるからです。だから必ず行きます。ガンと宣告されれば、自分で判断して、手術するかしないかを選択します。
【伝えたいこと】
何て言えばいいのでしょうか。人間でありながら、被爆すれば容貌も変わり、むごたらしい体験をしなくてはならない。私たちは肉親でない人たちのことをとても気にかけていたので、もし自分の肉親が被爆すれば、言葉をかけようにもない状況になるでしょう。私はそれを実感しました。顔はだれ、体の肉はちぎれ、人間の体が獣同然みたいに変わってしまうのです。
原爆は、人の姿から心までもぎ取っていくような気がします。むごたらしい。だから、二度とこの惨状が起きて欲しくありません。イラク戦争も、私は見たくありません。のんびりと暮らしていける平和な世の中を一番望みます。私たちはもう亡くなっていくのですが、これ以上、あなた方若い人が頑張って、核戦争のないようにして欲しいと思います。
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