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米田 数利(まいた かずとし)
性別 男性 被爆時年齢 16歳
収録年月日 2005年10月14日  収録時年齢 77歳 
被爆地 長崎(入市被爆) 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 海星中学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

米田数利さん、当時16歳。長崎市内の自宅から、電車と船を乗り継ぎ、工場へ通う毎日でした。その瞬間も、いつものように働いていました。燃えさかる市内を避け、たどり着いた防空壕で、傷ついた母親と、兄弟たちに再会しました。
 
 
私たちが動員されたのは川南造船所でした。そして、私を含め5人が資材部に派遣されました。まだすっかり完成してない、コンクリートのビルの2階に藁工品を積み上げていました。私たちは、高く積んでいる藁工品の中に5、6人が寝転べる程度の空間をあけました。そして、真っ暗な中でときどきさぼっていました。被爆したときも、その中にいました。
 
11時2分、その時間にものすごくパァーッと部屋が明るくなりました。私は一番最初に外に状況を見に出て行きました。窓際に出た途端、ものすごく熱い風と爆風が襲いました。それから、あまり大きな音ではなかったですが、バーンッという音が聞こえました。そのときに、工場の工員さんたちが外を歩いていましたが、その人たちは火傷を負っていました。女性の方は金切り声を出しながら走り回っていました。私はその姿を見て、空襲だぞと声を出しました。

当時の考え方として、爆弾というのは下に落ちてから破裂する感覚があったので、長崎市内じゃなくて、近くに落ちたのだと思いました。とにかく、それで逃げることになり、5人がそこから抜け出しました。気がつくと、遠くの防空壕まで来ていました。そのとき、上にはB29が飛んでいました。もう駄目だと思いましたが、ちょうど島にいたので、岩の陰に隠れ海岸まで下りました。そして、隙間からその様子を見ていると、今の写真で見ることができるキノコ雲がバーッと上がっていました。
 
新聞で、6日の日に広島に新型爆弾が落ちたというのを耳にしていたものですから、これも長崎の新型爆弾だという話になりました。そして、じっと見ていると、落下傘が2つ浮いていました。それが爆発するのではないかと思い、本当に怖い思いをしました。最近、アメリカで言っていることを見ると、撮影のためのカメラをぶら下げていたそうです。それと、ものすごく大きい、入道雲のかたまりみたいになってずーっと流れ、南西の方向に流れていたのでしょう。
 
当時、長崎の稲佐岳にある展望台の下に三菱造船所があって、そこは高射砲などが置いてある陣地になっていました。その稲佐岳の陰から、真っ黒い煙が上がっていました。私たちは、あそこに爆弾が落ちたのに、ここまで風が来るはずないと話をしていました。そのうちどのくらい時間がたったか、よく記憶にはありませんが、上のほうから人声がして空襲警報が解除になったことを知りました。それで、私たちも岩登りをして、道路に出ました。みんなと一緒に、ゾロゾロと持ち場に戻って行きました。その途中、ガラスの大半が割れていて、どうしたらいいか分からないわけです。帰ってきても、自分たちが座る所も何もない状態でした。
 
そんな中、12時半か1時ごろ、長崎市内に新型爆弾が落ちて、全滅したと知りました。それで、報国隊は先に帰ることになり、桟橋に集められました。全部船に乗せられ、長崎の県庁近くの大波止という所に着きました。そして、私たちの家に帰るのに一番近い、電車通りを通り帰ったのを覚えています。もう周りは燃えていました。

【自宅を目指して】
500メートルくらい行くと、それから先に行くことができませんでした。それでまた元に戻り、金比羅山の裏側を歩いて自分の家のほうに帰りました。3人でしたが、2人とも私より1級年下でした。そして、ちょうど金比羅山が切れるあたりから下のほうに田んぼとか畑が見えてきましたが、力のある人たちがここまで逃げてきていました。
 
最初は、遠くまで逃れてきているということで、傷もやけどもひどくありませんでした。歩いていると、助けを求める声がありましたが、自分の家がどうなっているかわからない状態だったので、無視をするしかありませんでした。だんだんと歩いていくうちに、ケガや火傷をした人の数がだんだんと増えていきました。私は8時近く家につくことができました。もう真っ暗でした。長崎市内は、ものすごい勢いで、真っ赤になるくらい燃えています。もう人影も何もない状態でした。私の家は瓦だったので、半分ぐらいが焼けましたが、残りの半分は吹っ飛んでいて跡形もありませんでした。そして、家族がどこに行ったのかもわかりませんでした。
 
私は、さっきの3人に家の人が見つからない場合、この場所に戻るという約束をしていたので、その連中が来るのを待っていました。1時間たっても、2時間たっても誰も来ませんでした。私は、行く所がなかったので、その晩この場所で長崎市内が燃えるのを眺めていました。一晩、明かして、朝4時か5時ごろ、ガヤガヤと遠くのほうから人声がしました。そこには、町内の残った人たちが集まっていました。無事だということを確認し、自分の親が防空壕にいたことを教えてもらいました。
 
【家族との再会】
弟2人、妹1人がいて、母はすっかりやけどをしていました。一番下の妹は無傷でしたが、弟2人と母は横たわっていました。次の日、明るくなって見てみると、母は顔は腫れて、胸のあたりまで紫色になっていました。肉が溶けた状態に見えました。ジャガイモをすって、つけたりなんかはしましたけれども、治ってからもケロイドが残りました。無残な格好でした。自分の弟とか妹に何か食べさせたいと思って、防空壕に残っていた大豆やお米の煎ったものをあげて、水を飲ませていました。
 
私の妹が畑に横たわっていると近所の人に言われました。すぐに行くと、顔が腫れていて誰かわかりませんでした。しかし、着ているものを見て、私の妹と分かりました。背中からやられたらしく、顔のほうは腫れただけで傷も何もなかったです。しかし、背中はやけどをしていました。サツマイモの畑の中までなんとか行ったけれども、道路から10メートル離れたところでのびていました。
 
やけどをした妹は、ちょっとでも温めるとピリピリして痛がりました。それを考えると、夏の日差しの強いときにいたわけですから、とにかく影のあるとこに連れていこうと思って両腕を持って起こしました。そうしたら、皮がズルッと取れてしまいました。焼けていました。どうにもならない中でも、妹は生きているのです。そして、その話を警防団にして、警防団の人と2人でリヤカーを引いて臨時の収容所になっている長与という学校まで連れていきました。
 
長与の学校でも半分ぐらい、ガラスが割れていたような感じでした。そして、教室や廊下はケガ人でいっぱいでした。看護婦の人とか、陸軍、海軍含めて兵隊さんが何人か来ていました。しかし手当ての方法もなく、白いペンキを塗るだけでした。こちらには、やけどした母、弟2人に妹が1人いるものですから、知っている方に頼んで、学校から自分たちがいる防空壕に帰ってきました。

【市内の惨状】
みんなを助けたり、いろいろな用足しに行きました。そのときはまだ3日目、4日目あたりですから、長崎の悲惨さを体感しました。2日目、3日目あたりから、馬や人が腐敗を始めて、そのにおいは大変なものでした。そして、ケガ人の看病をしたり、防空壕にいる同じ町内の人でケガをしている人の介護をしていました。そんな暮らしをしていましたが、私の生年月日の日、妹が死んだと学校から知らせがあり、町内にタウラさんと一緒に長与の学校まで行きました。どなたかが小さな布団を用意してくれて、その布団の上で私の妹は死んでいました。

浅く土を掘り、上に土を盛りました。妹にお線香1本もあげることができず、お花1本あげられず、ただいけっぱなしでした。そして、妹が死んで、リヤカーを引っ張って帰ってくるとき、道路端の家の廊下に、新聞がありました。その新聞には、大東亜戦争集結の詔勅下ると大きな見出しでした。当時の新聞は今の4分の1ぐらい小さなものでした。それを見て、戦争は負けたと思い帰り、私の妹を埋めたことを覚えています。

【その後の生活】
戦後、私は家庭の事情もあって家を飛び出しました。私を生んだ母が、こっちのほうにいるということを、おぼろげながら聞いていました。極端に言えば、家出かもしれませんが、こっちのほうに向かいました。そして、いろんなことをやってるうちに、生みの親とめぐり会いました。
 
【出産時の不安】
娘が生まれるとき本当に悩み、生まれたとき、私は一番最初に足の指を数えました。それから手の指。そして、目や耳があることを確かめました。形は普通でしたが、新聞などの情報を見ていたので、耳が聞こえるか、目が見えるか、物が言えるようになるのかが心に引っかかっていました。オモチャで遊んでいる目の動きや音がする方向を見ている姿に、不自由でなくてよかったと思いました。普通の人より喜びも大きかったです。
 
【伝えたいこと】
私たちが特定の人に、こうでした、ああでしたという話をしようと思っても、本当の一部の関心のある人たちぐらいしか集まってくれません。学校に行って話をしても、顔を見ながら真面目になって聞いている人が少ないような感じがします。私が実際に感じたことです。だから、私たちは一生懸命話をするにしても,本当にそういう世界が広がることにならないと思っていました。だから、学校とかそういうところで、浅くてもいいから取り上げ、みんなに広く伝えるような方法が必要ではないかと思っていました。
 
長崎の祈念式典や墓参団など小学校や中学校、高校の修学旅行で行っていますが、一番真面目に見てるのは小学生ではないかと感じます。中学校や高校の一部を残して、あまり見ていないのではないかと。だから私自身、小さいときから、もっと広く浅く戦争の惨めさを何らかの形で教えるべきだと思います。私たちが少しぐらい大きな声で体験談を伝えても、特定の人の耳に入るだけで、一般的には広がらないのではないかと思っています。
 

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