前野寿昭さん、当時18歳。召集を受け陸軍に入隊。8月10日の明け方に、救援のため長崎市内に入りました。焼けただれた負傷者が水を求めてさまよう姿は、今でも頭から離れません。
8月9日は中で事務をしていました。他の兵隊たちは運動場に出て訓練をしていました。私は教室にいましたが、小型爆弾が落ちたような大きな音がして、ピカーッと光りました。近くに小型爆弾が落ちたような感じだったので、その瞬間、皆、床に伏せました。外にいた人たちは慌てていました。1機の飛行機が長崎から離れた場所で旋回しているのを見て、小型爆弾が落ちたと思いました。
9日に原爆が落ちて大変だということで、その日の夜中1時ごろに起こされ、長崎の復旧作業へ行くため、列車に乗りました。私たち兵隊は、皆、客車ではなく貨物列車へ乗りました。帰りもそうでした。長崎へ着いたのが朝方です。途中で汽車が止まりました。原爆の関係でしょうか、線路が故障して列車が動かなくなりました。途中で列車が止まったので、そこから歩いて長崎に入りました。原爆が落ちた翌日の朝方だったので、まだ街が燃えていました。
田んぼのような平地で、少し傾斜になった山の近くの畑を歩きました。裏山を通って長崎に入りました。山の傾斜に沿って畑がありましたが、山のあちこちに防空壕が掘ってありました。神戸の大空襲でたくさん死んだ人を見ましたが、防空壕は普通、地下へ掘って上に覆いをして作っていました。長崎は山に沿って防空壕が掘ってありました。山に小さい穴があちこちにありました。被爆した人は防空壕の中で山のように死んでいるのです。防空壕に爆風が入って死体が真っ黒なので驚きました。防空壕にいれば助かると思って入った人が、皆、黒焦げになっているのです。黒焦げの山があちこちにあって、生きている人が黒焦げになって出てくるのです。
私たちが歩いてくるのを見て、生きている人が水を求めて、たくさん寄って来ました。黒焦げになった被爆者がついてきました。被爆者はやけどが痛くてのどもかれ水を欲しがりますが、古年兵が水をあげてはいけないと言うのです。復旧作業や応急処置のために行く目的地があるのですが、そこへ行くまでは本当にかわいそうでした。水をあげると死ぬと言われたし、あげても死んだのでしょうが、どうせ死ぬならあげればよかったと今は思います。
どこを歩いたか分かりませんが、浦上の爆心地に行きました。小高いところに畑がありました。目的地に行ってみましたが、木造の家はまったくありませんでした。山はくぼんでいましたが、下に川が通っていたからでしょう。傾斜には村があったと思います。小高いところに兵隊がいました。向こうの山を見ると燃えていました。前の日に原爆が落ちたので、あちこちで火が燃えていました。私は指揮班だったので、中隊長が軍刀を持って石炭箱に座っていました。司令部なので、長崎のあちこちへ行った兵隊に指令するのです。私は通信紙を書きました。漢字が出てこなかったり、慌てたりもしました。司令部は連絡をするための指揮班でした。歩いて行くと、近くに学校があって、鉄筋の大きな校舎がありました。そして、その校舎へ入ってみました。古年兵が私を常に連れて歩いていましたので、学校など、色々なところに行きました。
【惨状】
学校の教室にある板の時間割も粉々になっていました。机もいすも形がなくなっていました。机もいすも窓際に吹っ飛んで、積み上げられていました。それを見て大変だと思いました。空襲警報があったので、学校の先生は飛行機が来るのを立って見ていたと思います。警報があっても逃げなかったのです。3人が学校の玄関を出た前の運動場で前向きに倒れていました。性別は分かりませんでしたが先生だと思いました。真っ裸で、真っ黒でした。服は夏服で薄かったので吹っ飛んだと思います。皆、そうですが、あの3人も爆風がきて、一瞬にして死んだのです。苦しんだ形跡もありませんでした。何の障壁もない場所だったので思いきり爆風を受けたと思います。
家が1軒もない焼け野が原で焼けた人が歩いて来るのですが、私たちは指揮班なので、どうにもできませんでした。兵隊は川の近くで黒焦げになって生きている人を助けました。死んでいる人は処分して集めました。生きている人を集めて薬を塗りました。今思うと、そんな救護では何も効果がなかったと思います。所有者のないイモや、ナンキン、野菜がありました。昼になると、炊事班がそういった野菜を集めて鍋で炊いていました。とにかく食べないといけないのです。味は付いていましたが、放射能について誰も話してくれないので、たくさん浴びていました。
地震の時には竹やぶへ入れと言われていました。竹やぶは地に根を張っていて頑丈です。その竹やぶが株ごと浮いて飛び上がっていました。株が噴き上がったように飛び上るという、悲惨な状態を見ました。どこかは覚えていませんが、兵隊が駐屯していた形跡がありました。その横を古年兵と通りました。神戸の大倉山に高射砲隊があって、飛行機が上を回ると下で破裂して飛行機まで届きませんでした。高射砲が上を向いて人が死んでいました。高射砲の弾を運んでくる人も、そこで倒れて死んでいました。その情景が、そのまま出ているのです。その瞬間に死んでしまったのです。
とにかく人がいませんでした。人がいても、私たち指揮班は誰も助けないので、皆、救護班に行きます。皮がむけた牛がいました。牛なので人間と違って、まだ生きていました。炊事班がその牛を引っ張って帰って、それを炊事して私たちに食べさせてくれました。髪が抜ける人は言いなさいという指示がありました。その時に原爆だと分かっていたのに、なぜ知らせてくれなかったのかと思います。異常がある人は言いなさいと言われましたが、髪の毛も抜けないので、そういったものを食べましたが、臭いし、下痢をした感じでした。そうして放射能をたくさん食べました。まだ浦上の爆心地に放射能がたくさんあったと思います。
8月15日に玉音放送がありました。何だか分かりませんが、矢上の国民学校へ集まるよう言われました。玉音放送を聞いて大隊長が泣いていました。兵隊は皆、運動場に座って、泣きながら日本が負けたことを話しました。非国民のようですが、神戸の空襲を見て勝てるとは思えませんでした。日本の飛行機は反対の方向へ逃げていくのですから。夜になると焼夷弾の音がして、雨が降るように落ちてきました。だから何とも思いませんでしたが、大隊長にすれば悲壮だったでしょう。勝てるつもりでいた戦争だったので、私たちと違って感無量だったと思います。15日の終戦後は、塹壕を埋めたり、長崎の復旧作業をして、9月15日に召集解除になりました。
【出産への不安】
本当は、私は子どもがほしくありませんでした。妻には冷たい主人だと思われたでしょうが、変な子どもが生まれたら困ると思っていました。妻は原爆や放射能について知らないので、子どもをほしがりました。私が、どうかしていたら子どもは生まれてなかったでしょう。妻は子どもがほしいの一点張りでした。私は期待しませんでした。今思うと妻が宝物を残したという気持ちで感謝しています。年を取ると、すぐ涙が出てしょうがないです。妻に子どもが授かったというのは、私の宝です。妻の供養はよくしています。今年は三回忌です。死んでから、よく思い出します。
【伝えたいこと】
原爆は老若男女、問いません。今は子どもの被害があちこちで起きて、悲惨な世の中になっています。テレビを見ると、すぐ泣いてしまいます。罪のない子どもたちが殺されるのは、ざんきと言いますか、腹が立ちますし、情けなく悲しいことです。鉄砲で撃ち合うのは仕方がないとしても、原爆だけは罪のない人たちを犠牲にしてはいけません。
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