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益子 賢蔵(ましこ けんぞう)
性別 男性 被爆時年齢 22歳
収録年月日 2006年10月1日  収録時年齢 83歳 
被爆地 長崎(入市被爆) 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

益子賢蔵さん 当時22歳。大村海軍航空廠に所属。その瞬間は諫早市に。強い光を感じ、長崎上空にきのこ雲を見た直後、爆風で飛ばされました。調査委員として、被害の状況を見て回る際、爆心地の光景に愕然。そして、それが原子爆弾であることを告げる英文の手紙を発見しました。
 
【長崎へ】
海軍の予備学生という制度で将校を養成する課程がありました。私はその土浦にある海軍航空隊に予備学生として入りました。私は目が悪く飛行機に乗れませんでしたが、そこには飛行機に乗る者ばかりが集まっていたので、同級生はほとんど死んでしまいました。私は予科練の教官という形で科学を専攻していました。しかし、戦争が末期になるとそれを学ぶ余裕もなく、法律学校で毒ガスの訓練をうけました。米軍が毒ガスを使うということで対応策のため半年、訓練を受けました。そして九州がやられるということで、大村にある海軍工廠に行ったのです。しかし、そこでは毒ガスを使うこともなく、専ら衛兵司令という思想犯罪の取り締まりや思想犯罪を調べるという、警察のような仕事をしていました。当時は諫早に大村の航空廠の支廠がありました。そこで女子挺身隊が飛行機の部品を作っていました。私はその監督のため諫早に行っていました。
 
【8月9日】
私は11時すぎに各工場を回って歩いていました。そこには桜並木があり、その桜並木を歩いているときに、ピカッと光ったのです。変な光だな、すごい光だなと思っているうちに、桜並木の間にきのこ雲がみえたのです。そしてまもなく大音響とともに吹き飛ばされました。後から思うに、計算通り音速は1秒間に330mくらいでした。最初に光って、煙が出て、爆風がくるという順序になっているんですよね。その時は何が起こったのかわかりませんでしたが、とにかく重大なことなので帰って報告しなければと思い、諫早駅に向かいました。諫早駅から電車に乗ろうとすると、駅員に「これから、死傷者が大勢乗るので一般の人は乗れません」と拒絶されました。私は軍刀を下げて戦闘態勢だったので、半ば駅員を脅すような形で、強引に電車に乗りました。
 
騒がしいかと思った車中は全く音もせず、窓が仕切ってあるので、暗くて車内はよく見えません。目が慣れて見ると座席には誰も座っておらず、座席以外の場所いっぱいに、みんな寝転んでいるので、びっくりしました。かすかに苦しそうな息が聞こえるだけで、みんな血だらけで真っ黒でした。生きているという感じがしませんでした。これは話にならない。今までにない相当すごい爆弾が落ちたんだと感じました。いまでも電車で苦しむ人の姿が目に焼きついています。それから大村に戻り、中将にその時の光と音、そして電車での様子を報告。重大な爆発事故だということを知らせました。
 
【被害の調査】
報告後、すぐに委員会が開かれ、調査のための人員が集められました。軍医や法律関係の者、私のような一般の兵隊や技術将校もいました。約10人くらいが各々の任務を命ぜられ、10日の朝に長崎に向かいました。長崎駅はめちゃくちゃでしたが、なんとか行き着くことができました。私は北から南に向けて調査をしました。任務は用兵的な見地から現場を完全に偵察して来いというものでした。用兵的というのは、日本がこの爆弾に対抗するにはどうしたらいいか。その手段を現状を見て報告しろということで、被害状況を調べたのです。爆弾の威力や落ちた位置、被害者や家屋の状況など一切合切その被害を調べると、山の陰になっていた方は被害がありませんでした。山の土手というか、原爆のあったほうは建物もなく壊滅状態。浦上天主堂の門柱が、にょっきり立っているだけで跡形もなく潰れていました。
 
特にびっくりしたのは、爆心地と思われる場所でした。建物もなければ人もいない。まったく何もなく、ただ焼けただれた地面があるだけでした。長崎造船所の大きな建物はぺしゃんこに潰れ、そこで働いていた人が鉄骨に挟まれて死んでいました。その脇にある船でも人が死んでいるし、原爆時は警戒警報が出ていたので、こうもり傘を持ったおのぼりさんが、そのまま道路で死んでいました。とにかく人っ子1人いません。生きている人が一人もいないのです。生物といったものは一切なく、もうダメなんだなと、しみじみと感じました。
 
【英文の手紙】
調査が終わるころ、市民から、落下傘の付いた爆弾のようなものが落ちていると報告がありました。じーじーと音がして爆発するのではないかと。そこに行ってみるとゾンデが落ちていました。ゾンデというのは要するに超短波発信機です。約1mいくらかの太いゾンデは、草むらに入ったところに落ちており、じーじーと音がするので、やっぱり時限式爆弾ではないかと思いました。職務上、なんとかしなければと思い、恐る恐るふたを開けると、中に手紙が入っていたのです。後から聞いた話によると、手紙は2、3通落とされていたようです。そして手紙は手書きで、当時、東大の嵯峨根教授宛てのものでした。
 
嵯峨根教授は原子物理学専門でした。広島で落ちた爆弾を特殊爆弾と言っていましたが、手紙にはスペシャルボンとは1つも書いてありません。アトミックボンと書かれていました。それで、広島と長崎に落ちた爆弾は、かつて勉強した原子エネルギーを利用した原子爆弾だとわかったのです。手紙の内容は『嵯峨根教授とアメリカで原子エネルギーの勉強していた。だからアメリカに原子爆弾を作るだけの工場があることも承知だろう。この立派な発明を、アメリカは最初に砂漠で実験し、見事に成功した。2発目は広島、3発目は今朝落とす』というような内容でした。そして、このまま戦争を続けても日本全国がこのようになるから、大本営の幹部にこれを見せ、戦争をやめるよう勧告してくれと書いてありました。
 
私は戦争を続けるために調査をしていたのに、ひどい現場状況と手紙を見て、とても戦争は続けられないと思いました。とにかく戦争をやめるためには、すぐに大本営に報告しなければいけないと思い、当時は電話もないので速達を出しました。当時、反軍思想を持つ憲兵は死刑でした。私は手紙を出すと自分も死刑になると思いましたが、それでも戦争をやめるべきだと手紙を出しました。「あまりも現場はひどく、とても戦えない。日本には対抗するだけのものがない」と一種の反軍思想のようなことを死刑覚悟でしたためました。日本国民のためにも。と、私は意を決して海軍の大本営本部に手紙を出したのです。その後、15日に終戦と迎えました。やっぱりあの手紙が効いたのかなあと、戦争をやめさせた1つになったのかなあという感じが後でわかりました。
 
【その後の体調】
終戦後も、私は米軍と一緒に現地調査をおこなっていたので、ものすごい被爆をしているわけです。そして約1ヶ月の調査後、栃木へ帰りました。調査中も熱発や脱毛、だるさがありました。当時はそれが被爆によるものだとは考えられていなかったので、ただの疲れだと思っていたのです。それで1年くらいはぶらぶらしていました。昭和28年には肺結核になり片方の肺がありませんが、その後、しばらくは健康でした。しかし、定年後、胃ガンが見つかり、手術で胃の5分の4をとりました。その後、原爆が原因ということで書類を作りましたが適用されませんでした。その後、総胆管結石で胆のうをとる手術もしました。私は肺はないし、胃はないし。そういう状態で今現在、生きているのです。
 
【子供への影響】
私たち夫婦は、原爆の影響が子どもにも出るかもしれないと、当時からわかっていたら、結婚しなかった。と時々、笑いながら言います。長女は、その影響らしく、強くはありませんが精神薄弱で、1人は心筋梗塞でもう亡くなってしまいました。
 
【伝えたいこと】
私は定年まで警察に勤め、その後は民間企業の研究所にいました。消防学校や警察学校に行った時には、講義の時に原爆の話を必ずしました。特に消防では、いくら一生懸命やっても原爆が落ちたら消防なんかできない。だから絶対に原爆を落とさないようにしなくてはだめだと話しました。いけないかもしれませんが、私は今もってアメリカを敵だという風に感じています。日本は憲法によって、60年間平和できているのです。今までの歴史で60年間戦争がないというのはありません。イラクに行った自衛隊も1人の犠牲もありませんでした。やはり日本憲法は良いです。アメリカがいくらくれても、他国を攻めるような軍事には絶対反対です。原爆を受けた人は、おそらく誰もがそう思っていると思います。
 

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