水野耕子さんは当時14歳。爆心地から2.8キロの片淵町で被爆しました。薄暗い太陽、被災者の群れ、裏山、谷底での避難生活を忘れることができません。被爆後、健康不良や差別に悩まされながらも、被爆者の手助けを続けています。
【被爆前、どんな日々を、-】
いつもおなかが減っていました。親も一生懸命、イモのツルを炊いてくれたり、お餅があればそれをご飯と混ぜてお弁当の中に入れてくれました。いつも木の実やシイの実やグミを食べたりしていましたが、やはりおなかが減っていました。
【当時の学生生活】
当時は女学生でした。木造校舎の体育館に、旋盤工工場の機械が並んでいました。私たちは2階で、その旋盤の製図を習うため、待機していました。50人ほどいました。警戒警報中でした。
【被爆の瞬間】
すると窓から真っ白いせん光が私の目に映りました。その光の激しさに、思わず2階の廊下に出ました。階段を駆け下りる瞬間に爆発が始まりました。そこの踊り場へたたきつけられ、失神しました。大きな1メートル四方の姿見が、私たちの前に倒れ、粉みじんに割れました。直撃していたら、今、こうしてお話する機会はなかったと思います。ふっと気付いて、1メートル周囲を見ると、鏡が割れている程度で、“私たちは助かったんだー”と思って教室に行きました。教室は血の海でした。木下さんの顔は丹下左善みたいになっていて、足からは血が吹き出ていました。
救急袋を出すどころか、どこに何があるのか分からないので、先生を呼ぶと、飛んで来られました。先生に「元気そうやから、医務室に来い」と言われ、重傷者が二人いたので、医務室を片づけて寝かせました。下級生は頭から出血して「母ちゃん呼んできてえー」と言うのを「呼んでくるよ」と落ち着かせました。元気なものは帰れと言われました。人々は、皆山へ向かっていました。皆近所に爆弾が落ちたという判断なんですね。私が家へ帰ると、畳が全部立っていました。家の庭の防空ごうから母親と姉と兄と妹が出てきました。父親は西浜の長崎工しょうにいて、潰される寸前だったと言っていました。
【被爆後の惨状】
家に帰ってから見たのは、むごい姿の被災者が、中心地から山に避難している様子でした。その間にも、その周辺はあちこちで爆発があり、昼間なのに夕方のようになっていました。母は私を抱きしめて「よかった」と言いました。外では焼け爛れた被災者たちがゾロゾロと歩いたり、リヤカーに乗せられたり、学校動員の人たちはそのような状況でした。三日三晩、谷底で過ごしました。時々、友達と外の様子を見に行くと、夜、延々と燃え続けており、大村師団の兵隊さんたちの消火活動の様子が映像のように、炎の中で動いているのを見ました。その時は、「応援に来たんやねー」「こっちまで火が回らんならいいねー」と祈るような気持ちでした。その火の中にいる方たちのことまでは、その時は分かりませんでした。兄弟5人と母親と、谷底で過ごしている時、敵が照明弾を落としてきました。どうやって調べるのか不思議でした。
【被爆後、畑を開墾】
被爆の10年後、24歳で結婚しました。その間は長崎で生活していました。そのときは右も左も皆被爆者で、それが当然のような感覚でした。被爆の翌年の春に、長崎医大農学博士のオギノ先生が「75年も草木が生えないと言われたが、半年くらいで草が生え出したじゃないか」と言われました。今の浦上天主堂の下の方の運動場で、ジャガイモとサツマイモを植えるため、開墾をしました。秋になり、大きなサツマイモができました。バケツに二つくらいしか入らないほどの大きさでした。放射線が土地に染み込んでいたからです。「よかったねー、大豊作やねー」と、オギノ先生も大いばりでした。「おなかいっぱい食べて、家にも持って帰れる」と喜びました。21年のことです。
【被爆による健康不安】
1人目の子どもができる時に、主人の実家から“大丈夫な子ができるかしら?”と言われました。少し予定より遅れたので、原爆のせいと違う?と言われました。西山の水源地には20年ほど、放射線が混ざっていたという話を聞いてゾッとしたことがあります。私は常に疲れやすい体で、無理な仕事はできない体質でした。子どもは無事生まれたのですが、3人とも予定より遅れて生まれました。そのたびに、原爆のせいじゃないの?と言われましたが、授かったものは、どういう子であれうれしかったです。
36年に、主人の仕事の関係で富山県に来ました。その時富山在住の被爆者はみんな暗いと感じました。私たち長崎在住の被爆者は、周りに被爆者が多く被爆者なのが当たり前であって、ちょっと楽天的な感覚で生活していました。富山の被爆者はあまり話されません。長崎出身者と暁部隊の兵隊さんで、男の方が多いこともありますが、集まりがあっても皆、無言です。会になると当時の悲惨な状況の話をしますが、どんな病気でもひた隠しに隠そうとされます。世間に対して一切、口外してないという、富山の被爆者の実情を見ると、遠い所へ来たように思います。40年目にして、親と終戦後にできた子どもが、甲状腺ガンになり、孫に身障者ができた、という人がいます。
【原爆投下への怒り】
地獄を味わった人が今、植物人間になってます。「地獄って分かりますか?」と私は言いました。胎内被爆者の子は健康体なのに、どうして終戦後にできた子どもたちがこんなガンに侵されなくてはならないのかと思います。
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