道上昭雄さんは当時16歳。爆心地から2キロの上野町で被爆しました。両親と弟、妹、合わせて5人が犠牲になりました。その後、後遺症に苦しみながら苦難の日々を送り、結婚後も子どもが相次いで亡くなり、原爆への強い憤りを持って生きてきました。
【被爆前の長崎へは、-】
父親が石屋をやっていたので、日本中あちこち転居しました。私も群馬県で生まれて茨城、栃木、岡山と移り、それから長崎へ行きました。長崎へ行った当時は、両親と兄が1人、私、弟が3人で、5人兄弟でした。長崎へ行ってから下に女の子が生まれました。
【被爆の場所は】
家は爆心地から500メートルで、浦上天主堂のすぐ下でした。もちろんその当時は、どこが爆心地かも分かりませんでしたが。後で原爆が落ちたときの地図を見ると、爆心地が松山町で、ちょうど500メートル圏内で、父親がいた所は300メートルということが分かりました。私は、昼間、父親の手伝いをして、夜は中学校に行っていました。夜間中学と言って、今で言う定時制に行ってました。
【被爆した家族は】
母親は、家の下敷きになっていました。母親と一番下の生まれてまだ5カ月の妹が、下敷きになって亡くなりました。父親は、当時勤めていた事務所が爆心地から300メートルだったので、跡形もなく亡くなりました。いまだに行方不明です。
【被爆の瞬間】
自転車で走っていると、突然ゴーっという音が聞こえました。他の被爆者は誰もそんな音を聞いてないと言うのですが、私は聞きました。その音を聞いたので、自転車から飛び降りて伏せました。あの音を聞いていなかったら飛ばされていたでしょう。伏せている時に、瞬間的に光線も受けましたし、爆風も感じました。一種特殊な静けさがその時ありました。そして立ち上がったら、その辺が見えないくらい、土ぼこりでほとんど真っ黒に近い状況でした。
【被爆直後の惨状】
一面火の海で前が通れなくなりました。山へ行けば何とか帰れるだろうと思い、金毘羅山の裾まで来ました。そこに一本道がありました。その一本道へ入った途端、本当に地獄でした。裸に近い人が、向こうから何人も歩いて来るのですが、身体は焼け焦げ、焼けただれ、髪の毛もほとんどない状態でした。近くの兵器工場で働いていた中学生や女学生たちでした。夢遊病者のように、すれ違っても知らん顔で歩いていました。100メートルも行かないうちに、大火事で通れないので引き返し、山の上へ上がりました。上がると見渡す限り、一面火の海でした。原爆が落ちてから一時間もたっていないのに、町全体が燃えていました。
うちの畑で母親や弟たちを呼んでみましたが、何の返事もないので見回していると、10メートルくらい先の畑の中で、何かが動いていました。ピーンと来て走り寄ってみると、4才8カ月の一番下の弟でした。裸で体中真っ黒であちこちやけどをしていました。皮膚がビロビロになって、抱くに抱けないので上着を脱いで、くるんで抱きました。近くの小川まで連れて行くと、水を欲しがりました。水を飲ませたら助かる命も助からないと思っていたので、水をあげずに寝かせました。
あまりにもむごくて見てられないので、「お母さんを捜して来るから、ちょっと待っとれよー」と、その場を離れました。ちょうど、うちの家の近くから火が出たのでその火を消して2、30分で戻るともう死んでいました。うちの近辺は500メートル以内で爆心地みたいなものですから、ほとんど燃えて誰も助かっていません。全滅です。そんな所で4、5歳の子どもが2時間も2時間半もよく生きていたと思います。
【被爆後、家族の情況】
翌日の朝から、家の片づけをしていたら、母親が生まれたばかりの妹に覆いかぶさるような格好で死んでいました。2人を抱き上げ、前日に死んだ弟と3人一緒に庭に寝かせ、翌日、だびに付しました。昼頃、弟に「ちょっと行ってくる」と言い町へ出ました。その時初めて家を離れました。爆心地に行くまでに、あちこちに真っ黒になった死体がゴロゴロしていました。父親が帰ってないことをふと思い出し、父親のいた所まで一目散で走って行くと、建物の跡形もありませんでした。ずっと防空ごうで寝泊りしながら父親の帰りを待ちました。弟も捜しに行かなくてはと思い、あちこち歩きましたが、結局、徒労に終わりました。姿を見てないから、どうしてもそこを離れられなかったのです。
【後遺症について】
被爆してから10年くらい、身体がだるく、医者に行っても原因がわかりませんでした。私も原爆に遭ったことを言っていなかったのですが。あちこちの病院へ行きましたが原因がつかめませんでした。大阪の阪大病院で、白血球が人の半分しかなく、白血球を作る機能が破壊されているから、もう増えることはないだろうと宣告されました。それを聞いてかえって安心したのか、「なるようになるだろう」ということで、がむしゃらに働きました。
最初の子どもは、亡くなりました。すぐに原爆のせいじゃないかと思いました。2回目の子どもが何とか助かり、3回目の子どもがまた駄目でした。これは何かあるなと、一番心配しました。自分ではそう悪いとは思ってなくても、身体の中でどうかなっているのではないかと思いました。最後に生まれた男の子が湿しんが物すごくひどく、これは原爆のせいだと思いました。二十歳過ぎまで湿しんができていました。
【原爆投下への怒り】
いくら腹を立てても、自分一人の力でどうなるものでもないですけども、原爆だけは本当に許せないと思います。やっぱり、自分の身内を亡くしたということが一番つらかったです。自分の家族がみんな元気だったら、そこまで怒りを覚えなかったと思います。
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