山崎芳城さん。当時26歳。徴用で長崎県飽の浦にあった三菱長崎造船所の食料課配給係として勤務していました。造船所の近くにあった防空壕の入り口付近で被爆。その後、工長の指示により、連絡が途絶えた浦上支店の様子を見に行くことになり、変わり果てた同僚達の姿を目の当たりにしました。核兵器が根絶され、平和な世の中になることを切に願うと言います。
【被爆前の生活について】
生まれは松山市ですが、以前は北条市善応寺と言っていました。農家の長男でした。農家の長男は、米を作るものだという時代でしたので、学校の教育はそっちのけでした。北条の「高三(コウサン)」と言うのがあって、高2を卒業すると、高三だけもう1年通い、それからは自分の家で農業の手伝いをしておりました。25歳ぐらいまで農業をし、それからは徴用で、長崎の飽の浦に2年間の契約で連れて行かれました。
私は、食料課配給係でした。私たちが本部になり、支店が5つか6つありました。「今日は精米するぞ」と言われたら、下の倉庫に積んでいた米俵の口を切って絞って移し、繰り上げで上へあげて、それが精米機へ伝って、タンクに溜まると、「おおい、できたぞ」と言っていました。そうすると、カマスを持って行って受け取り、60キロになったら「おい」と言って、それを持ってまた、そこから滑らすようになっており、下に待機しているトラックに積んで、各支店へ配っていました。
お酒の配給だと言われたら、酒屋へ行って、こんな樽をこうして担いで取ってきて、それを各支店へ順々に配っていました。お菓子も、お菓子屋へ行って積んで戻り、それを配る。そんな事をしていました。
その当時、私たちは最初は、稲佐の寮にいましたが、同僚が「下宿においで、月5円だから」と言ってくれたので下宿に移りました。朝食と夕食を食べさせてくれて、月5円でした。布団などは持って来なくてはいけませんでした。だから家から送ってもらいました。空襲の時は、夜中わざわざ起きて、仕事場まで行っていました。
【被爆当日の様子】
あの日、今日はどこでどうやって時間を過ごそうかと思っていました。毎日毎日、空襲がひどいので、仕事も十分に出来なくなっていました。仕事が出来ないので、どこにいる事も出来ず、ぶらぶらしていると、「おまえら、人の目につかんとこで時間を潰せえ」と言われました。作業場は工長室からよく見えるので、何をしてるのかよく分かります。今日は何をしようかと思っていると、防空ごうを整備しているというので、そこへでも行ってみようと思いました。
大きな防空ごうで、片側には米500俵の非常食料を積んでいるし、三菱病院の医療器具や機械も積んでいました。それで毎日、大勢が入るものですから、奥の方へ入ったら、息苦しく空気が濁れてしまってはいけないので、新しい空気口を作る工事をしていました。それで、防空ごうに入り、入り口付近の梱包の上に座って、「心地がええ」と言っていたら、ぴかあっと光りました。はあっと思って頭を下げると、爆風が入ってきて、帽子が飛びました。あらら帽子が飛んだと思い、帽子を拾おうとすると電気が消え、小さい梱包の上にいた私は転げ落ちました。そして、外にいた人が入って来る、それにつまずく、そこへまた人が入って来ると、一時はてんやわんやでした。
少し落ち着いてから、外へ出て東の方を見ると、県庁の窓から、ぐわっぐわっぐわっと、煙が出ていました。火も出ているし、あそこへ落ちたのかと思いました。配給している所にいた人が、「どうも浦上へ落ちたらしいから、下宿へ帰ってみよう」と言い、帰ってみることにしました。稲佐は、もとは遊郭のあった所ですが、そこを通り、火の気の無いような所を通って、下宿の竹ノ久保へ行ってみたら、家がもうぐしゃんとなっていました。これから要るであろう自分の布団と衣類は、まだ燃えてないうちに持って帰らなければいけません。そうしているうちに、もっと奥の方にあった工場から若い男の人が出て来ました。夏だからランニングシャツを着ていなくて、上はシャツだけでした。ひょいと見ると、血管が、赤と青に鮮明に浮き出ていました。それこそ絵に描いたような状態でした。「水下さい、水下さい」と言うので、私たちの下宿していた所は井戸ですが、柄杓で水を汲めるような井戸だったので、汲んで飲ませてあげました。水を飲ませると、すぐ死ぬと言われていましたが、もう仕方ない、飲みたいものは飲ませてあげればいいと思いました。
そして私たちは、そこから荷物を持って、一旦作業場へ戻りました。そうすると、工長に「浦上から連絡がないので、行ってみてくれないか」と言われました。それで、組長と伍長と私の3人で行ってみましたが、もう見渡す限り表現しようのない状態でした。この間、広島に落ちた爆弾と対らしいということでした。火が燃えていました。青い山はありません。もう全部の山が赤くなってしまって、燃えている所と、燃えてしまった所がありました。家は倒れた所と、燃えている所とあり、本当に焼け野原で、何にもありませんでした。人は余り見かけませんでした。飛ばされてしまったか、逃げてしまったのでしょうか。焼けた人もいたと思うのですが、そこら辺は消防の人たちが大分来ていました。もし今日は休めと言われて、下宿で寝ていたら、それこそもう死んでいたかもしれません。
浦上の支店へ行ったら、「誰それらしき者の遺体引き取ります」という立て札が立ててありました。それは、挺身隊で来ていた女の子のだと思います。元気でいる人はいないので、そこにあった真っ黒焦げの遺体を、男と女に分け、掃除して並べ、大体の名前を控えて、火をつけてあげました。それから、崩壊した家屋の瓦礫を取り除くと、焼酎を入れる容器がそのまま残っていました。このままにしておくともったいないので取りに来ようと思いました。それで、火をつけておいて、一旦作業場がある所まで帰り、それからトラック2台を雇って戻って来て、それを持って帰りました。その日は、もうそれで終了しました。
【終戦…実家のある愛媛へ】
翌日は、遺骨を拾いに行きました。そんな事をしていて、仕事も何も出来ない状態で15日を迎えました。陛下の玉音放送があるので、皆一同揃って作業所へ行きました。それから、「これは、いよいよ戦争が終わったのではないか、ああ、これで安堵した」などと言っていました。
翌日になると、町内会の回覧板が回り、15歳以上の婦女子は、縁故を頼って早く疎開するようにということでした。男はもう一生使役をさせられるのだとか、早くも米国軍が上陸しているのではないかなどと言ったりしていました。これは困ったことになるから帰ろうと思いました。一緒に徴用で来ていた人が支店にいたので、一緒に行動しようと思い、自転車で大浦まで行きました。そうしたら、今晩帰ろうと言うので、そうすることにしました。それが18日だったでしょうか、工長に帰ることを伝えると、20日までいるようにと言われましたが、「いいえ、もう友達も帰ると言うので、帰らせてもらいます」と言って、荷物を取りまとめました。
駅と言っても、ホームがある駅はもうありません。それで、切符は長崎駅という切符で、料金は降りた所で払うよう言われました。そんな状態で、荷物を置いて並んでいました。そうすると兵隊さんが来て、「皆聞いとれ、我々が乗ったらその後から乗れ」と言われましたが、そんなことを言っても、もう戦争は終ったからと思いました。汽車という汽車が満席で、荷物があるものだから、乗ったらもう身動きが出来ない状態でした。翌朝、鳥栖まで行って、広島へ帰りました。駅を出る時に、「どなたか、石炭を積んでくれる人はいないですか」と言われましたが、誰も火奉公しませんでした。汽車が出てから、少し坂になっている所を上がりかけました。普通だったらごっとんごっとんごっとんごっとんというのが、ごっとん、ごっとん、ごっとんになり、おかしいと言っていたら、ごごごごごごと下がったので、これは危ない、脱線でもしたら命が危ないかもしれないと言っていました。2、3度そんなことがありましたが、結局上がって、広島まで戻ったのが翌日の夜中でした。
死臭というか、耐え難いような臭いがひどかったです。しかし、行く所も無いし、朝まで辛抱して、今度は一緒に尾道まで行きました。「私が米を持ってるので、飯を炊こう」と言うので、「飯炊く言うて、飯ごうあるのか」と聞いたら、「持ってる」と言うので、飯ごうで飯を炊いて食べました。そして翌日の夕方までに家に帰りました。家では、まさか戻って来ると思ってないので、びっくりされました。
【被爆後の体調】
大した病気はしませんでした。しかし、私は大体目が良くなかったので、目イボがよく出て困りました。ほかは大きな病気をしなかったように思います。
【平和への願い】
核兵器は根絶と言うか、無くさなければいけません。核兵器があると困ります。戦争のない、平和な世の中にならなければいけません。
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