横谷アサエさん、当時18歳。爆心地から、およそ3.5キロの万屋町で被爆。男女の区別もつかないほどやけどをした人々が水を求めて川に入り、重なりあっていました。すぐ側にいて行方が分からないままの職場の先輩。先輩のためにも生きていかなければと思っています。原子力発電所の事故はとてもショックでした。核はいらない、命は大切にしてほしいと語ります。
【被爆前の暮らし】
父が商売をやっていたので、戦争中も何の不自由もなく育ちました。学校を卒業してすぐにちょっとやりたいことがあったので1人で京都へ行って勉強していました。ちょうど戦争がひどくなってきて、みなさんが軍需工場へ働きに行くようになったので、私も「帰ってくるように」と言われて長崎に帰りました。そしてその4か月後に被爆しました。郵便局に入り保険の勧誘ではなく、色々な手続きなどをやっていました。先輩が家庭を訪問するときは、私も一緒にお供して行っていました。4月に入ったばかりで、まだまだ勉強している段階でした。
【8月9日】
その日はまったく何もなく、普通の日でした。朝「行ってきます」と家を出ました。1人ではまだ無理なので、「今日はそっちのほうへ行きますよ」と先輩に言われ、お客さんのところへ一緒に行きました。その日は万屋町の常盤旅館だったと思います。玄関に入るとき、先輩が「どうぞ」と私を先に入れてくれました。先輩は私から1メートルも離れていないところにいて、玄関を入った途端に被爆しました。そのときは音も何にもなく、バーッと光が体の中を通り過ぎていった感じです。それから何分もしないうちに、割れるようなものすごい音がしました。その音で自分がどうなったのかちょっと分からなくなりました。その後、その家が少し斜めに倒れ、竹を組んだ土壁の土がバーッと体にかかってきたのは分かりました。ふっと気が付いて先輩の名前を、「吉川さん」と大きな声を出して呼んだのですが先輩はどこにもいませんでした。そのときに初めて、「あれ、何があったのかな」と思いました。
川のほうに行き、大声で先輩を捜したのは覚えています。橋を渡ろうとすると、橋が真っ赤になって垂れ下がっていました。全部が鉄の橋ではなく、大きな木で支えてあり、鉄の手すりが垂れ下がっていたのだと思います。その川を見たときの状況だけは今も忘れられません。もう、すごかったです。水のところに大勢の方が重なり合っていました。私もそうですが、みなさん水を求めて行かれたのだと思います。そういう光景を見たときに、自分の体に光がバァーと通り、その後に一度しか音がしなかったのに、見渡す限り何もなくなっていることに私は驚きました。大勢の人が川にうずもれていことは、よく覚えています。男の方か、女の方か、動物かは、よく分かりませんでした。道の脇には人が倒れて、ぶくぶく、ぶくぶくと、体の生の肉が煮えているようでした。でもそれは男の方か、女の方かというのは分かりませんでした。衣類なども、もうボロボロでした。私はただぼう然と見ていました。だからそういうときには、辺りが焼けて遺体だということは分からなかったのではないでしょうか。
【自宅へ戻る】
何か家の方へ通知があって、父が私を連れに来てくれたのだと思います。次に思い出すのは家に帰ってからのことです。いつも名札は付けていましたが、家に連れて帰られたのかは分かりませんでした。家に帰って私が「痛い」と言っていると、父が、「すぐよくなるから」と手当てをしてくれました。そのときの傷の痛さだけは頭に残っています。それから私の体がどういうふうになったのかははっきり記憶がありません。姉夫婦がそばにいたので、いつも姉婿が私を肩におぶっては病院へ走りこんでくれていました。
【先輩への思い】
私は今でもその先輩のためにも生きていかなければと思っています。私に色々なことを教え、可愛がってくれたとってもいい方でした。おかげで私は何とかみなさんと一緒に仕事ができたのだと思います。18年間何もなく普通に生きてきたのに、一瞬のことで先輩や大勢の人を失くして、二度と会うことができなくなりました。先輩の写真を1枚でも撮っておけばよかったと、今、後悔しています。
【結婚】
少し体が良くなって、私は家に連れて帰られました。私に結婚の話があったときに、家から出すことはできないというので、父が色々な方に相談しました。そして、いい方がいるということで、大工の職人の方と1回目の結婚をしました。結婚した相手も同じ被爆者でした。背中にはバーッとガラスの破片がまだ残っていました。それから私の苦労も始まりました。原爆というのは私のやけどだけじゃなくて、こういう人もいたのだと思いました。その主人は2年9か月病院に入院して、毎日血を吐きながら亡くなりました。結果的に最後には窒息でした。病院には私と主人のお母さんが2人でずっと付き添いました。6畳の病室の中で2年9か月、主人は一言も話しをすることもできなくて亡くなりました。
私も被爆者ですが、前の主人はもっと苦しい思いをしました。主人は三菱の工場で働いていました。結婚して2、3年して子どもを1人もうけました。1700グラムぐらいで生まれた子どもを育てていくためには「再婚したほうがいい」と兄弟に言われました。私はそのときに、「もう絶対に嫌だ、自分は本当にもう二度と結婚なんてしない」と思っていました。でも今こうしていられるのは、今の主人が本当に尽くしてくれたからです。家のことも一切やってくれました。私は病院にいたり、家にいて横になっているだけでした。そうして少しは体がいい時期に、今の女の子が生まれました。その子もやはり1700グラムぐらいで、私の体の中では子どもが育たなかったようです。その娘が今、私の面倒を見てくれています。その子は私のために本当に苦労しました。学校へ行く日も、朝、私に食事をさせて、昼ごはんも作って、夜は学校から帰って食事を作って食べさせてくれました。私は病院の入院生活と家に帰って寝ていることの繰り返しをずっと今までやってきました。
【命の大切さ】
娘と結婚してくれたお婿さんに、「私はこういう体です。こういう病気を持っています」と最初に話しました。するとそのお婿さんは、「僕たちには関係ないでしょ。結婚させてください」と言いました。私は、「ああ、そうかな」と思いました。でも何かがあって、そのときに分かったのでは娘がかわいそうだと思って最初に話したのです。今、そのお婿さんが本当に大事にしてくれます。「お父さん、お母さんの面倒は僕が見ます」と言って、結婚してくれました。それが私の今まで生きた証拠だと思っています。
今もとても大事にしてくれます。夜、もうだめだということになって市民病院に連れて行くのも、いつもその娘夫婦です。「もう救急車では間に合わないから、早く自分たちで行こう。行けばすぐに診察できるようになっているから」と連れて行ってくれます。「もういいわ」と思うことが何十回もありました。「もういいわ、私はもうこれでいいの」と言いました。でも考えてみると、死んだらどこへ行くか分かりません。先輩の吉川さんことをすぐに思い出して、「私はあの人のために生きなければ、もう少し生きなければいけない」と思いました。「検査をしましょう」と病院で検査をされますが、何度検査をしても、何がどうだということは、もう絶対に分からないことです。だから私は市民病院で担当のお医者さんに「私の体から放射線を取り出してください」とお願いしたこともあります。悲しいです。思い出すと本当に悲しいですが、生きています。今、生きているということで、若い者と楽しくやっています。
孫が結婚式をあげました。そして「おばあちゃん、よかったね。生きていればこういうことがあるのよ」と言われました。「ありがとう」と感謝しました。ひ孫ができてから、たまに連れてきてくれます。楽しくて、本当に生きていてよかったと思います。命の大切さを感じます。「何があっても私は生きていくんだ」と今つくづくそう思います。
【福島第一原子力発電所事故】
私はこういう体になって、自分で一心に生きようとしてきました。3月11日の震災で原子力発電所が爆発したとき、私は自分なりに、これは原子爆弾を落とされたようなものだと思いました。今は平和で、自分で何とか生きていこうと思っていたのに、あの原発事故は私にとってはとてもショックでした。私は愚かにも今まで日本には核はないと思っていました。だからショックで家族の者に「どうしてこういうことになったの、日本には核はなかったんでしょ」と聞きました。
原発が爆発したとき、私はテレビを見ていました。偉い方たちは色々と言っていますが、私達のように1回でも被爆を体験したら、口先だけで色々なことを言っている場合ではないのです。何が起こるか分からないのです。3月11日の原発事故があってから、私はいつも心の中で、「私たちのようなことがもう二度とあってはならない」と思いました。あそこに住んでいた方たちのことを考えると、気の毒を通りこして、何て言えばいいか分かりません。とにかく悲しいです。もう絶対に二度とこういうことがあってはならないし、ないことを信じています。まだまだ私は何があっても生きていきたいです。そして、「本当に誰もみんな、命だけは大事にしてほしい」と言いたいです。
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