吉崎幸恵さんは、当時5歳。爆心地から3.5キロの伊良林町で被爆しました。家族の多くが被害にあい、直後から苦難の人生を過ごしながら、今も平和運動に深くかかわっています。
【被爆前の住居と仕事】
長崎市伊良林町に住んでいました。爆心地から3.5キロ離れた山の上の方に家がありました。母は、畑で仕事を、父は、小屋を建てていました。お世話になった方が疎開をしたいというので、仮の住まいを建てていました。
【被爆時の記憶】
幼児でしたが当時のことは覚えています。お座敷をグルグル駆け回って遊んでいると空が真っ白にピカッと光ったので、子ども心にも何が起こったのだろうと走るのを止めました。そして、次の瞬間、爆風が起こり防空ごうへ避難しました。その頃は毎日のように大人から言われなくとも自分たちで防空ごうに行っていたのを覚えています。防空ごうの中では泣いてばかりいました。
せん光や爆風は感じましたが、山の上の方だったので、火事にはならず、生命には別状はありませんでした。姉は気絶しましたが、一瞬でした。母が畑から帰ってきて、もう一人の姉が血だらけで黙っているのを見て「やられた」と思ったそうです。家の中で亡くなった人はいませんが、私は母から何度も被爆のことを聞かされていたので、そのことをみなさんに話をします。いとこが学徒動員で亡くなりました。爆心地近くの三菱兵器大橋工場という所で被爆し即死しなかったものの、急性原爆症で亡くなりました。
【家族の被害】
父はせん光で胸を焼かれやけどをしました。母は、畑で作業をしていたので、背中を焼かれ、何カ月もやけどがよくならなかったと言っていました。姉が3人、私は四女で妹がいます。姉は、家の中で9カ月の妹を体でかばったので、ガラス破片を浴びて血だらけになりました。おかげで妹は無事でした。もう1人の姉は、昼ごはんの仕度をしようとしていた時に、爆風で土間にたたきつけられて気を失いました。家財道具や仏壇が爆風で倒れ、ガラスが畳に突き刺さったので、その日は家の中で寝ることができませんでした。だから、家にござを敷いて家族みんなで寝ました。時間はわかりません。家財道具が倒れ障子が吹き飛んでガラスが割れ、何が何だかわかりませんでした。家族用の防空ごうを作っていたのでそこへ逃げました。逃げる途中にガラスで足を切り、防空ごうの中では痛さと怖さで泣いてばかりいました。泣いている記憶しかないのです。私の泣き声が防空ごうに響き渡っていたのを覚えています。
【被爆の惨状を聞く】
両親が爆心地へ私のいとこ(両親のおい)を捜しに行き、死体を一人一人起こしながら捜したそうです。私はまだ5歳だったので家の中にいました。
【被爆者として自覚】
20歳の頃、福岡に来て1、2年経った時に被爆者健康手帳が送られて来ました。それで私も被爆者だと知りました。自分の方から母に聞きました。何でこういうことになったのか母に尋ねると母はずっと話をして聞かせてくれました。何度も何度も聞かされたので、母から聞いたことを自分一人のものにしないで伝えていかなければという考えに変わってきました。手帳を持っている以上は、被爆者として何かやろうという思いになりました。そうなるまでにはずいぶん年数がかかりました。1983年頃です。
【結婚への不安】
不安はありませんでしたが、私が活動するのを見て、彼が「被爆者だったのか」と言ったので、「被爆者と分かっていたら結婚しなかったのか」と逆に質問したくなりましたが、それは言いませんでした。主人は私の活動を全面的に理解してくれていますので、心配は全然ありませんでした。子どもが産まれた時も、まだまだ若くて元気だったので、「子どもにもしかして」ということもあまり感じませんでした。子どもの方が「自分の親は被爆者だから、自分はもしかして死ぬかもしれない」と思ったかもしれません。白血病で亡くなった被爆二世の生涯が、歌になり、演劇や絵本になったものを読んだのではないか思いました。私が被爆者運動で力を込めて活動しているので、その後ろ姿を見てくれていると思います。
【原爆症状で死亡】
父は来年で33回忌です。がんで亡くなりました。母は今年90歳で、がんで亡くなりました。放射線治療やモルヒネ治療もしました。姉は生存していますが、乳がんを患いました。昭和21年に生まれた妹がいます。両親が爆心地で放射線を浴びた後に生まれた子どもです。当時まだ胎児でもないので被爆者ではないのです。この妹が私たちよりもひどい症状で、甲状腺機能低下というがんと同じような、死ぬまで薬を飲み続けなくてはいけない症状です。妹は結婚して、子どもを産む時に、両方とも命が危ないから生むのを考慮しなさいと先生に言われたそうです。
【原爆症への懸念】
私は今、元気そうに見えますが、今度は私の番じゃないかと思います。ちょっと食欲不振だったりすると「ついに来たのか」と不安になります。恐いです。死にたくないです。
【被爆後の仕事】
学校は出ていません。実家が農家だったので、学校で勉強しなくていいと言われ、農作業を手伝っていました。本を読んでいると怒られました。畑で草とりをしたりして、いつも畑の農作業をしていました。学校に行っていなかったのですが、少しでも高給なところに就職したいと思っていました。就職のためにタイピスト学校に行かせてもらってタイピストになりました。長崎で2年くらい働いてあこがれて福岡に来ました。最初はアルバイトをしていましたが、裁判所の産休代替となりました。そのうち、パートタイマーで就職ができまして40年間働いてきました。
【原爆への怒り】
虫ケラのように生きながら殺された、残虐極まりない悪魔の兵器を人間の上に落としたことへの怒り、憎しみ、許せない気持ちがとてもあります。よく祈りの長崎、怒りの広島と言いますが、永井博士の「原爆は長崎に与えられた試練だ」というようなコメントに対し、怒りも持っています。そう思う方がいても構いませんが、私は影響力のある方がそんなことを言われることに黙って容認することはできません。怒りはまだ続いています。アメリカでファットマンとリトルボーイの模型を見た瞬間、怒りと悲しみで泣き崩れたので、現地の平和団体の人に助けてもらいました。この爆弾が罪もない人たちを一瞬の内に殺したかと思うと、悔しく、悲しいです。
【平和への闘い】
平和は守ると言いますけど、守るものでも祈るものでもないと思います。平和は闘い取るものだと、勝ち取るものだと思います。だから、流されないで自分の意思で平和を勝ちとってゆくという運動に参加しています。なよなよなんかしてられません。体験をいろいろな方に話す時は、き然としてメッセージを伝えています。心の中で思ったり、頭で考えたりするのではなく、言葉や態度に表しています。戦争や核兵器反対という思いを世界に向かって発信してゆこうとみなさんに呼びかけるには、自分もき然とした態度が必要だと思います。これは、長年つちかってきた自分の思想でもあるのです。人から与えられた生き方ではなく、証言にしても自分から創出した方法なのです。常に前向きに生きるのは私の性格だと思っています。
【被爆体験の継承】
「被爆国の国民なのですから、私たちがいなくなった後でも、みなさんが語り継いでいってほしい」と呼びかけています。みなさんがそれぞれ受け止めて子孫に伝えてゆくことが大事です。聞いてその場で終わりでなく自分たちの子孫に伝えてゆきますという強い反応が寄せられると、やはり、私たちが語らなくてはいけないと実感します。どんなに残虐極まりない、人類とは絶対共存できない兵器かということを知らせるのが大事だと思います。一人でも多くの人が語り継いで言って欲しいのが私の願いです。
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