吉田一人さん、当時13歳。爆心地から約3.5キロの中川町で被爆しました。あの日、切符を買いに長崎駅に行った吉田さんは、空襲警報解除の後、防空ごうの入り口から走って長い列の前方に並んだおかげで、被爆直前に駅を離れ助かりました。しかし、自分の代わりに犠牲になった人がいるに違いないと感じ、何も言えず死んでいった人に代わって被爆者運動に関わり続けようと決心しました。
【当時の暮らし】
生まれたのは長崎県島原半島の西側の小浜温泉です。ここで小学校時代を過ごしました。家族は両親と姉が2人です。父親はもう召集される歳ではなく、家族の中で直接戦争で死んだ者はいませんでした。私は長崎県立長崎中学校に入り、1944年、昭和19年の4月から長崎で暮らしていました。従弟の家に下宿したり、友達のところに住んだりしていましたが、原爆のときは中川町にいました。
【8月9日 朝】
当時の汽車は駅に行けばすぐに乗れるという状態ではありませんでした。定期列車の半分くらいは軍需輸送に充てられていたので、一般の乗客は簡単に乗れませんでした。私は翌日の乗車券を買うために、朝早くから市内電車に乗って長崎駅に行きました。既に多くの人々が並んでいました。私は四、五十人目ぐらいの順番でした。今日は相当に時間がかかると覚悟しました。
そのとき7時48分でしたが、警戒警報が鳴りました。警戒警報は、まだ避難の必要はありません。しかしその2分後に空襲警報が出ました。空襲警報は敵の爆撃機が上空まで来ているぞということです。空襲警報になると一般市民は全員が防空ごうに入る決まりになっていました。駅前の広場には大きな防空ごうがいくつかあり、駅にいた人たちや周辺の通行人は、そこに全員が逃げ込みました。
私も防空ごうに行きました。空襲警報が解除になって、また乗車券を買う列に並ぶときは、最初の順番は関係なく、早く並んだ順になります。私は空襲警報が解除になったとき、早く乗車券が買えるように防空ごうの入口近くにいました。そうまでしないと切符も買えない、バスにもなかなか乗れない状態でした。間もなく空襲警報が解除になり、みんな防空ごうから駆け出して、乗車券を売る窓口に並び直しました。私は防空ごうの奥に入らず入口近くにいましたから早く行って今度は先頭から10番目以内でした。
【被爆の瞬間】
すぐに切符を買うことができました。そして長崎駅から市内電車に乗車し、終点の1つ手前の中川町で降り、下宿に向かって歩いて帰っていました。家の前で同級生にばったり会い、立ち話をしていました。立ち話しているときに原爆が落ちました。「ピカッ」と何か光った感じではなく、いきなり全てが真っ白になりました。私の周りの全世界がカメラのフラッシュをたいたような感じでした。私は爆弾だと思いました。当時は焼い弾で家屋を焼き尽くすのが通常だったので、すぐに路地の奥に駆け出しました。そのとき爆風が来ました。走っていた体がふわあと浮いて、路地の奥の板塀にたたきつけられました。
何分ぐらいたったのかは分からないのですが、気がつくと物音が何にもしませんでした。音が全くしないという状況は、それまでも、その後も体験したことがありません。ふっと我に返り、そっと目をあけてみました。すると一寸先も見えない土色でした。自分が生きているのか死んでいるのか分かりませんでした。それからどのぐらい時間がたったか分かりません。二、三秒か、もう少し長かったのか。火がついたような子どもの泣き声が聞こえてきました。それで「ああ、生きている、自分は生きている」と気づきました。
その日は防空ごうで一夜を明かしました。山の中腹につくられた防空ごうなので、市内がよく見えました。市内はぼうぼうと燃えているのではなく、漁り火のようにあちこちで、弱く燃えていました。そのときは既に、長崎が被爆した午前11時2分から12時間以上もたっていたので、燃え残りが燃えている状態だったと思います。本当に漁り火みたいなのが、山の向こうの方にずっと見えました。
【ふるさと小浜へ】
翌日の朝、実家のある小浜へ汽車で帰ろうと思い、防空ごうのある山から下りて駅に向かって歩きました。諏訪神社の下を通っていると、爆心地のほうから逃げてきた、被災した人の群れに会いました。みんなぼろぼろで、爆心地あたりを描いた絵のように、腕の皮がむけて、皮膚が下がっていました。そういう人たちがいっぱい歩いて来るのに出会い、これはただごとじゃないなと思いました。駅へ行くのはだめだと思い、途中で引き返しました。
歩いていると偶然、小浜の友達に会いました。「歩いて行けるとこまで行こう」ということになり、2人で小浜を目指して歩きだしました。山越えの道を歩いていると、負傷者を運ぶトラックが次から次に通りました。何が起こったかはまだ分かりませんでしたが、改めて相当ひどい被害なのだと思いました。負傷者を運ぶトラックが1台止まり、私の名前を呼ぶ人がいました。「トラックに乗れ」と言われました。田舎で呼ばれている私の呼び名だったので、小浜の人だと分かりました。声に聞き覚えはあるのですが、顔は包帯で巻かれており誰だか分かりません。「ひどくけがをされたんですね」と少し話しましたが、やはり誰だか分からず、私は仕方なくトラックの片隅に小さくなって乗っていました。
【小浜で】
小浜からは湾を隔てて、きのこ雲が見えたそうです。だから相当に大きな爆弾が落ちて、長崎は全滅したらしいといううわさが立っていました。長崎から帰ってきた私たちは、自分の家までたどり着く途中、取り囲まれて長崎の状況を聞かれました。学校に行っている子どもや、軍需工場に動員されている人など、町からは男女を問わず多くの人が長崎に行っていました。みんな自分の家族がどうなったのかが全く分からなかったのです。「あそこの学校はどうなった」「あそこの工場はどうなった」と、色々と聞かれるのですが、私は何も情報を持っていませんでした。ただトラックの中の会話で、「どこでけがをした」「どこの工場にいた」などは小耳に挟んでいたので、その話をしました。するとそこに警官が通りかかって、「爆撃の被害の状況を勝手にしゃべるな」と言われ、警察に引っ張られました。
始末書を書いただけで、間もなく引き取りに来てくれた親と家に帰りました。警官の対応から考えても、長崎から小浜に帰ってきた人の中で、私たちが一番早かったようです。
【生きている限り】
東京に1958年11月に東京原爆被害者団体協議会という組織ができました。私は被爆者健康手帳をとり、その被団協の運動に参加させてもらいました。なぜ、被爆者運動にかかわったかというと、被爆者として認められたからには、被爆者の中では比較的若く元気なほうだから、運動に加わるのが生き残った人間としての任務だと思ったからです。
入会のきっかけはそうなのですが、もう一つ、ずっと心に引っかかっていたことがあります。それは最初にお話ししたように、8月9日の朝、私は切符を買いに長崎駅に行き、空襲警報解除の後、防空壕の入り口から走って最初の順番より前に並んだおかげで、切符が買えて被爆直前に駅を離れ助かりました。私の代わりに切符が買えず犠牲になった人がいるに違いないと、二十歳の頃からか考え始めました。自分だけが「うまくやった」じゃ済まない、という思いがありました。山端庸介氏が長崎原爆の翌日に撮った写真を見たときに、もしかしたら私の身代わりがこの人じゃないかと思いました。もし子ども連れだったら防空ごうからそんなに早くは走れなかっただろう。それで後ろのほうに並んだのではないか。長崎駅であろうが浦上駅であろうが私が要領よく列の前に割り込んだために犠牲になった人がいるに違いないわけです。この写真を見ると今もまだ胸が痛みます。
被爆者の中では元気なほうだということもありますが、あのとき長崎駅でずるいことやって、いわば誰かと命をすりかえたという思いがずっと頭の中にあります。それが私の被爆者運動をできる限りのことをしなくてはいけないという土台になっています。原爆で亡くなった多くの人たち、私に命をすりかえられて死んだ人たちは何も言うことができないんです。それが、私が生きている限りは被爆者運動にかかわり続けていかなくてはいけないと思う原点なのです。
【吉田一人さんの「吉」の部首「士」は、正式には「土」です。】
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