吉永正子さんは、当時14歳。爆心地から1. 2キロ、大橋町の軍需工場で学徒動員中に被爆、直後の地獄を体験し、病弱な体をおして、強く生きのびてきました。
【被爆前には】
長崎市本河内町です。蛍茶屋の終点よりちょっと上がった所です。祖母と2人暮らしです。私は一人っ子でした。私が小学校4年生の時に祖父が亡くなりました。それから祖母と2人暮らしです。祖母は爆心地から3.5キロ離れた本河内町に住んでいたので、直接の被爆はしていません。
【学徒動員での仕事】
長崎県立高等女学校の3年生14歳でした。学徒動員で三菱兵器大橋工場という、爆心地から北へ1.1から1.5キロの軍需工場で被爆しました。その工場は魚雷を作っていました。私は魚雷の部品にヤスリをかける、第2仕上工場という仕上工の仕事をしていました。
【その日の朝】
朝は普段と変わりなく仕事に行きました。平穏な生活でしたから祖母にいつものように「行ってくるね」と言って出かけました。友達を誘いましが、その人は具合が悪いので休まれました。後で、「あの人は運が良かったな」と思いました。
【被爆の瞬間】
やはり、運としかいいようがありません。一緒に仕事をしていた工員さんたちは亡くなりました。私はその時、部品がなくなったので防空ごうへ取りに一歩外に出た途端でした。工場の中にいたら下敷きになっていました。工員さんは即死でした。私は戸口付近にいました。全く外に出てしまえば、だめだったと思います。しゃへい物があったのも助かりました。一歩出た瞬間、光りました。ピカッと光った途端に吹き飛ばされてたたきつけられました。仕上工場で色々なメッキに使う塩酸、希塩酸が置いてあるかめのところに吹き飛ばされました。かめにたたきつけられて気絶しました。とにかくピカッと光って吹き飛ばされた後は、一時気を失いました。音はあまり感じませんでした。光った途端に吹き飛ばされたところまでしか記憶がないのです。聞いたかどうかもわかりません。光ったと感じた時に吹き飛ばされました。
【被爆直後の記憶】
どのくらい時間がたったか定かでないです。希塩酸のビンにたたきつけられ、私に流れかかっていました。あれが塩酸だったら大変だったろうと思うのですけど、それでもやけどはひどかったです。どのくらい時間がたったか、気がついた時には工場が燃えていました。走って逃げる人たちの姿が見え、私もその人たちについて走って逃げました。どこに逃げているのか考える余裕はありませんでしたが、ただ、走っている人の後をついて走って逃げました。幸いなことに北の方に向かって走っていたので、その人たちの後について走りました。一緒に働いていた、工員さんたちやお友だちが亡くなったというのも、後で知ったことです。
【避難途中の惨状】
生きているのか死んでいるのか分からない人が横たわっていましたが、気を止める余裕はありませんでした。ただ自分が思ったのは走りながら畑に野菜が転がっていて走りにくかったのを覚えています。人について走って逃げるのに今でも忘れられない光景は、線路の枕木が燃えて、鉄の部分が真っ赤になっていたことです。畑では農耕馬が真っ黒こげになって立ったまま死んでいました。現実のできごとではなく、悪い夢を見ていると思ったことを覚えています。
【被爆後の症状】
13カ所ケロイドがあります。このケロイドは一番軽い方ですが、50年たってもこのようで、真まで焼かれていると思います。足の傷が一番ひどく、若い時には本当に悩みました。このやけどのために福岡に来ても半年入院しました。
【避難と治療】
瞬間的なものはやけどでした。救援列車で大村まで運ばれました。諫早で降りる予定が、いっぱいで収容できないということで大村まで行きました。大村の病院で3日間治療を受けました。先生が帰れるものは帰っていいというので、友達と一緒に長崎に帰りました。まだ、燃えくすぶる長崎の町を歩きながら自宅にたどり着きました。
その後、急性原爆症が出て、歯茎から出血し、髪がみな抜けました。原爆症はひどかったです。歯茎からの出血は毎日毎日ひどかったです。高熱と下痢が続きました。そういう症状は、全部経験しました。長崎にいてはこの子は死んでしまうのではないかと祖母が心配しました。だから、福岡の叔母の家に引き上げました。復員してきた叔父が迎えに来てくれました。そして、叔母の家にお世話になり、私は九州大に入院させてくれ、どうにかやけども治り、一命を取りとめました。
【家族の被害】
祖母は昭和32年に亡くなりました。私を捜して爆心地近くまで行ってましたので。
【健康への不安】
原爆後10年間はずっと病気をしていましたから、病気の話になるとがぜん勢いづきます。現在は今のところどうにかもってますが、大腸がんじゃないかということでポリープを取りました。原爆の影響がないとは言い切れないですね。若い時にあれだけ病気をして、結核でも長く入院したので病気はあの時に全部済ましてきたのではないかと思っています。でも子育てから全部心配しながら生きてきました。
【被爆者として】
結婚できると思っていませんでした。男性に縁も薄く、父も早く亡くなっていましたし、祖母と2人暮らしですから男性に接する機会もありませんでした。あこがれてはいたんですが、自分の体も弱かったので、とても結婚できる状態ではありませんでした。叔父の家の隣の製材所に、今の主人が勤めていて、私が若いのに死にかかっていたので、かわいそうに思ったのでしょう、一緒になってくれました。被爆の差別というようなものを受けたことはなかったです。ただ自分がケロイドや病弱な体に悩んでいました。結婚できると思っていなかったので、運がよかったと思います。
【出産への苦悩】
昭和33年に結婚し、翌年長男が生まれましたが、医者には私が結核で療養していた後だったので、子どもを産まないよう言われていました。長男を産んですぐ、床上げもしないうちに高熱を出し、1年間療養所に入っていました。長男は母が育ててくれました。私は自分の体の方が心配で子どもに結核がうつらないようにと、原爆よりもその方がまず心配でした。あの頃はまだ新しい薬ができたばかりで何とか生命をとりとめました。2番目の子どもは絶対産んではいけないと言われて退院しました。4年目に長女が生まれました。その時もずいぶん心配しましたが、無事、女の子が生まれました。私を一番大事にしてくれた母が亡くなり、私は強くなりました。病気もしなくなりました。というか、母が今も見守ってくれているように思います。子どもを産む時には被爆者は皆心配です。 私の友人が、私と同じ頃に産んだ女の子を、白血病で亡くしました。そのことで、子どもが熱を出すたびに、白血病など自分の子どもにも影響が出るのではとずいぶん心配しながら子育てをしてきました。
【戦争、原爆への怒り】
青春時代、どんなにかみんなと同じように水着を着たかったか。とにかく男性に恋することに自分からプレッシャーをかけてできなかったことやつらい思いを自分の子どもには絶対させたくないと生きてきました。戦争そのものが人生を狂わせます。こうして58年を振り返りますと、原爆がなかったらもう少し違った人生を送ることができたとしみじみ思います。やはり戦争、原爆、核兵器は絶対に人類とは共存できないのです。それを伝えていくことが、これまで私が生きてきた上での、使命だと思います。
|