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吉村 和弘(よしむら かずひろ)
性別 男性 被爆時年齢 4歳
収録年月日 2012年10月12日  収録時年齢 71歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:5.0km) 
被爆場所 長崎市小菅町[現:長崎市] 
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

吉村和弘さん、当時4歳。爆心地から、およそ5キロの小菅町で被爆。母と二人、防空ごうの中に逃げ込んだ瞬間、強烈なせん光と爆音がしたことを今でもはっきり覚えています。67年たっても、後遺症や差別で苦しんでいる人が多くいる。一人一人の証言は小さく「草の根」かもしれないが、生きている間は、それを積み重ねていく必要があると語ります。
 
【被爆当時の様子】
私は1941年2月、長崎県の小菅町で生まれ、そこで19歳まで過ごしました。原爆のときは4歳で、高台にあった祖父の家に母と二人で出かけていました。その日はとてもいい天気で、私は一人で祖父の家の庭で遊んでいました。その頃は飛行機の爆音が聞こえてくると、「空襲警報か」という感じでした。
 
その日も「飛行機が来た」「B29が来た」というので、私は母と二人で祖父が裏山に掘っていた防空ごうに入りました。入った瞬間、「ピカー、ドーン」という衝撃がありました。防空ごうのすぐそばに爆弾が落ちたような感じでした。後から母に聞いたのですが、そのとき私は手を合わせて「なんまいだ、なんまいだ」と言っていたそうです。自分ではあまり覚えていません。しばらくたって防空ごうから出ると祖父の家の壁が崩れ落ちていました。その日はとても天気がよかったので、光がパーッと射していました。その光景は今でもはっきりとまぶたに焼き付いたように覚えています。祖父の家に入ると、爆心地を向いた方の壁がぽっかり開いていました。そこには仏壇などを置いていたのですが、その仏さんも吹き飛ばされていました。爆心地からは5キロ離れているので、被爆した街の様子は見えませんでした。
 
父はその頃、兵隊に行っていたのですが、その日はたまたま小菅に帰っていて、床屋さんに行っていました。床屋さんでも原爆の「ピカ、ドーン」の衝撃が激しかったので、父は階段の方に伏せていたそうです。
 
私は小さかったので原爆の体験談はあまり話すことはできませんが、戦後の物心ついてからの子どもの頃の生活はある程度話すことができます。その頃はみんな同じなのでしょうが、父が買い出しに行った話はよく聞いていました。お金があってもあまり物がないので、ほしいものは買えなかったという苦労話は聞きました。農家に行くと、「今度は何を持って来たか」と言われたという話は聞かされました。
 
【語られなかった被爆の実相】
私は爆心地の近くの茂里町にあった三菱の下請けの鉄工所に中学を卒業して3年あまり勤めていました。そこにはケロイドを負った人がいて、一緒に仕事をしていました。その人は工場では被爆の話は一切しなかったです。その人は原爆が落ちたとき近くにいたのですが、水をためていた防火用水に入って助かったと言っていました。それでもケロイドは残っていました。その人はこのような話はしてくれましたが、悲惨なことは見ているのでしょうけれど話しませんでした。
 
父はいとこが被爆したので救援のために被災地に入って行ったと思うのですが、そういうことは一切口にしませんでした。被爆後の暮らしぶりなどは話してくれましたが、原爆のことは長崎では私に一切話さなかったです。そのころはやはり話してはいけないというような雰囲気だったようです。アメリカと日本の政府が口止めしていたというようなことを聞いています。
 
【健康への不安】
私は爆心地から5キロのところで被爆したので、直接のやけどやけがはありませんでした。私は今71歳ですが、母は73か74歳のときにがんで亡くなりました。父はそれから何年後かにやはりがんで亡くなりました。だから70歳を過ぎた私は、最近、父母と同じようになるのではないかという怖さがあります。
 
戦争のとき、焼い弾などの爆弾はその1発で被害は終わります。しかし、原爆は67年たった今も被爆者を苦しめています。被爆者の中にはがんと闘っている人がたくさんいます。去年は埼玉県の被爆者が67人亡くなっていますが、がんで亡くなっていく人が多いようです。私は身内が70歳を過ぎて相次いでがんで亡くなっているので、自分もそうなるのではないかという恐怖はあります。

被爆者は結婚するとき、被爆者だということは言いません。そして、それが後で分かって離婚されたという話をよく耳にしました。そういうことを聞くと話せません。身近で自分の母や父が亡くなったのでなおさらです。私は長年船に乗っていて、結婚する暇もなく、結婚相手もなかなか現れませんでした。あるとき名古屋のおばとおじのところへ父と母が来て、「ちょっと来い」と呼ばれました。当時私は東京で一人で仕事をしていました。名古屋での用件は、お見合いみたいなものでした。それで妻と結婚しました。そのとき私は40歳前後で、遅い結婚になりました。

埼玉県の川口で私が40いくつかのときに子どもができました。しかし、その子は3か月たつかたたないかで何万人に一人という胆道閉鎖症で亡くなりました。それから私は気力がなくなり、気が抜けたようになりました。被爆後40年近くたって、ぶらぶら病っていうのはおかしいのかもしれませんが、なんかそういう感じになって1年か1年半ぐらい、仕事もあまりできませんでした。なんで40年もたってから、自分の子どもにそういう影響がでるのか。こんな不幸が重なるのかというような思いで過ごしたときがありました。
 
【被爆者運動とのかかわり】
埼玉に引っ越して、肥田先生と出会い、しらさぎ会や日本被団協など、被爆者の会があることを知りました。肥田先生に、「こういうのがあるんだよ」というお話を聞いて、何回か事務所に出入りするようになりました。私はのほほんと生きてきたのですが、皆さんは被爆して、すごく苦労してきたという話を聞きました。肥田先生には色々な面でお世話になりました。そのときはまだ鉄工所で働いていたので、定年になり仕事を辞めたら事務所を1年間か2年間か手伝うことになりました。それでしらさぎ会の事務所を手伝うようになりました。やはりその日その日を大切に生きることが必要と思います。
 
【アメリカでの証言活動】
私は6年前の65歳のときに、被団協からの依頼でアメリカへ証言活動に行きました。アメリカにある様々な平和団体の人たちからの招待でした。私は東京と神奈川の方の三人でアメリカに行き、証言をしてきました。アメリカでは8か所か9か所で証言活動をしました。アメリカには大きい団体はないのですが色々な小さな平和団体があり、平和を募る方々の集まりがありました。個人宅に平和を語る人たちが集まりそこで証言しました。3か所の教会にも行き、集まった親子連れや小学生くらいの子どもたちの前で証言しました。また、ラジオの生放送でも証言をしました。それはちょうど広島と長崎の原爆の日に合わせて行われた集会で証言をしました。平和運動としてホワイトハウスの前に40年近く座り込んでいる女性や軍の弾薬庫の倉庫に入り込んで座り込みをした女性とも交流しました。
 
私はある個人のお宅で証言したときに、その当時の大統領はブッシュだったのですが、「ブッシュ大統領に広島と長崎に来て、謝ってくれ」と証言しました。すると集まった人に笑われました。私は「大統領が代わってから来てもいいよ」とも言いました。それからまもなく、広島と長崎の慰霊祭にアメリカのトップではありませんが、アメリカの方たちが参列したという記事を見ました。ですからやはり被爆者の証言は、「草の根」かもしれませんが、私たちが生きている間は小さなことを積み重ねてやっていく必要があるのだと思っています。
 
【吉村和弘さんの「吉」の部首「士」は、正式には「土」です。】

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