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龍野 昭子(りゅうの あきこ)
性別 女性 被爆時年齢 1歳
収録年月日 2003年11月4日  収録時年齢 59歳 
被爆地 長崎(直接被爆 爆心地からの距離:1.8km) 
被爆場所 長崎市御船蔵町[現:長崎市] 
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

龍野 昭子さんは、当時1歳7カ月。おばあさんの胸に抱かれて被爆しました。その後、家族は次々に亡くなり、被爆体験を聞くにつけ、原爆への強い怒りがこみ上げて来ます。
 
【当時の家族と被爆】 
祖父母と父母と私と叔母2人と、妹がまだ胎内にいました。7人家族でした。被災にあったのは全員です。家には、祖父母や父もいたそうです。叔母は2人とも、学徒動員に行っていました。私は、祖母の胸に抱っこされている時に被爆しました。祖母が窓の方に背を向けて座っていたので、私は助かりました。当時、瞬間的に光があたり祖母の背中にケロイドが残りました。良くなりましたけど、直径20センチくらい残っています。だから、当時はまだ、背中いっぱいくらい傷跡がありました。もし、私が反対側にいたら助かっていないと思います。又は、大きなケロイドが残り今どんなになっているかと思います。
 
【被爆の瞬間 祖母から聞く】
1歳7カ月ですから当時のことは全然分かりません。色々後に話を聞きました。町は火の海だったので、一時、家の山手に逃げていたそうです。祖父が、三菱重工に行っている叔母を捜すのに2、3日かかったと言っていました。三菱重工の辺りは爆心地から600メートルくらいですから恐らく生きてはいないだろうと祖父は思ったらしいです。それが、叔母を見つけた瞬間、映画のシーンでも見ているような感じだったと言っていました。もう一人の叔母は家にすぐ帰ってきていたので、みんなで山の方へ逃げていました。

【被爆直後の惨状】
叔母が言うには、「水を飲ませてくれ」と、苦しんでいる人が足を引っ張って来て、逃げるに逃げられなかったそうです。側にあったかぼちゃを割って水を飲ませたら瞬間的に死んだ人がいたそうです。もう必死で考える余地も無かったと言っていました。近所を見ると、死体が横たわり、内臓が出て、見られる状態ではなかったそうですが、必死で逃げるしかなかったと言っていました。
 
【身体への影響】
髪が抜けて丸坊主になりました。それと下痢が止まりませんでした。当時、放射線が原因で死んでいる人が大きくなるように、私のおしりも大きくはれていたそうです。放射線の関係はあったと思います。1年間くらいは色々なことがありました。まず、下痢が止まりませんでした。

【家族への影響】
私たちは、放射線が体から外に出ましたが、母と7カ月の胎児の体内には残っていたと思います。昭和20年11月に生まれましたが、母はその年の12月20日に紫のはん点が出て私と妹のことを頼みながら亡くなったそうです。母の葬式の日、火葬に出かけられないくらいの雨が降り、祖父母が母の思いを表しているようだと言ったそうです。
 
【被爆後の苦難】
母は昭和20年、妹は昭和21年に亡くなり、私は天涯孤独になり、祖父母が父母の代わりに私を育ててくれました。母が亡くなり私だけが身内となった父は、まだ若かったので、祖父母が再婚した方がいいと父を長崎に帰したそうです。私は、祖父母が育ててくれました。祖父は私が中学1年の時に亡くなって、その初盆の時に父が来たのです。祖父母が大切に育ててくれたと思うのですが、やはり、両親が育ててくればと頭をさえぎるのです。その時、父に「母は?」と聞くと原爆で亡くなったと言いました。私は全然知りませんでした。私は、育ててもらったという感謝の気持ちを、今の時代の人に一人でも私の体験談を聞いて考えてもらえればと思います。
 
被爆に接した私にとって、原爆というのが腹立たしいのです。もしこれがなかったらと思いますが、今はこれも私の人生と思っています。世の中の今の平和は、その当時の方たちがそれだけの犠牲になってみなを救ってくれているのです。あまり平和過ぎて非行に走るようなことだけはしてもらいたくないです。
 
【放射線障害への不安】
瞬間のできごとでやけどになり、結局、それがよくなるまでは数年かかったそうです。祖母は、治療するのにドクダミを背中に当てていました。それが甲羅のように固まって3、4年くらいして取れたそうです。そういうことでもまだ原爆の影響が残っていると思っています。祖父は昭和30年頃食道がんで亡くなりました。私も放射線を浴びた影響だと思いますが、立ちくらみがひどいことがあります。貧血ぎみなので、血液の病気のような関係があると思っています。
 
【結婚、出産への不安】
偶然、主人も被爆数日後、長崎に入って放射線を浴びています。ですから、結婚して子どもにも影響があるのではないかと周りから言われました。自分は何もしていないのに結婚もできないのかという気持ちになり、腹立たしいです。結婚してすぐ子どもができましたから、子どもにも影響があるのではないかとひどく思いました。主人も私も被爆者ですし、被爆者の私がお産するので、特に影響があると言われました。今はもう年数がたっていますから、そんなに言われませんが、私たちが結婚する時は子どもへの影響についてはよく言われました。
 
【被爆体験を家族に】
私は両親に育ててもらっていないので、親と生活できると言うのは簡単なようだけど、何かことがあればできないと痛感しています。自分たちの幸せを当たり前と思ったら瞬間的に私のお母さんのようになるからと言っています。

【最も辛かったこと】
やはり祖母が亡くなった時が一番つらかったです。まだ若かったですが、お棺の中でも一緒に入っていたい気持ちでした。近所の人が私が落ち込んでいるのを察してくれていました。被爆があって、一番人生の苦しい苦労を共にし、私を育ててくれました。
 
【戦争を繰り返してはならない】
二度と戦争なんか起こしてほしくないです。今の人たちは戦争の経験もないし、被爆者の証言もなくなってきていますが、他人ごとではなく自分に置き換えて考えてほしいです。
 

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