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被爆体験について 
小野 美穂(おの みほ) 
性別 女性  被爆時年齢 24歳 
被爆地(被爆区分) 長崎(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 軍人・軍属 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

私は大村の航空厰に勤めていました。八月九日三階の窓際の席で仕事をしていました。左の頬が熱いと感じ空を見上げました。カボチャを割った感じの黄色がかった赤色の物体が広がるのを見た瞬間「ドカン」とものすごい音がしました。艦砲射撃だ伏せろと男の人の怒鳴ましたのであわてて机の下にもぐりこみました。

翌日出勤しますと長崎に新型爆弾が落ち町は全滅だと話していました。長崎にいる四人の妹達の安否が心配で大村駅にかけつけました。練早駅まできますとホームは死体であふれていました。列車は道の尾駅でストップ線路づたいに長崎に向ひ歩きました。途中木かげや防空壕の中から助けをもとめていましたが私にはどうしてやる事も出来ません。松山町の(爆心地)の路上で親類の小母さんに会ひました。妹達は元気だった事が、解りましたが小母さんは中学生の息子をさがしに来たそうですが駄目だったと私を焼跡まで連れて行きました。男女の区別さえつかない真黒こげの死体や白骨になった幼児の死体が散ばっていました。飲まず食わずで歩き通しで市外の両親の元にたどり着きました。

姉が三人の子供を残して戦災死しましたので二一年義兄と結婚し二一年七月に上京しました。二二年五月娘も生まれました。義母(病弱)も加え食糧難の時東京七人暮しは大変でした。

二四年寒い朝外出から帰り鏡を見て驚きました。左の頬に三ヶ所鼻に一ヶ所紫の斑点が出来ていました。霜やけだろうと思い薬を買って付けましたが春が来ても夏になっても治りません。変だなあとは思っていたんですが・・・・・長崎から母が上京してきました。母は私の顔を一目見てその顔はどうしたんだ。それはきっとピカドンのせいだ。長崎ではお前の様な顔の人を見かけると言ひました。私は半信半疑で母の言葉を聞いていました。早く病院に行って治療を受けないと死んでしまうと心配しますので早速病院で診断を受け、いろんな検査をしましたが原因は解りません。高価な注射をずい分打ちました。三○年頃から体がだるく夕飯の後片付けも出来なくなり手足にも出来、入院し原因を調べました。放射能の関係があるかもしれないと言われました。顔に斑点が出来てからは人前に出るのが嫌でPTAの集まりに行っても、目立ない様、隅の方に小さくなっていました。小学生の娘が「お前のお母さんの顔は紫だ」といじめられるから学校にきたらいやだと泣いた事もあります。私は娘の結婚や健康が一番心配でした。娘の結婚相手に「私は被爆者だけど娘は大丈夫だから」と話すまでは貝の様に口をつむり、誰にも原爆の事は話しませんでした。四一年に被爆手帳を交付して戴き、医療費も助かっています。顔の斑点も薄くなり目立ない様になりました。ありがとうございます。

 

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