当時私は長崎市立商業学校一年生で長崎市近郊の山の陣地構築作業に行っていて、翌日から母シト妹一栄と勝子の三名の捜索を始めたが行方不明で遺骨と思われる石炭ガラのようなものを止むなく持ち帰った。自宅は原爆投下中心地から五○メートルほどの近くの長崎市松山町であった。空襲警報から警戒警報に切り替わっていないので避難していた近くの防空壕から自宅に帰っていたと推定している。掘りおこしや自宅跡から避難時に携行する物品の焼残りが玄関近くで見つかった。念のため家のまわり、家のあとをくまなく掘り起し捜索したが全く家族の行方が分からなかった。
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