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被爆体験について 
古山 スヱノ(ふるやま すえの) 
性別 女性  被爆時年齢 24歳 
被爆地(被爆区分) 長崎(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 長崎市竹ノ久保町[現:長崎市] 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

爆心地より〇・七キロメートルの竹の久保町にある市の衛生試験場に勤めていました。ピカッと来て物凄い音と同時にファッとした身体が浮く様な感じを受けました。瞬間薬品の爆発かと思った。周囲が一瞬にして夕暮れ時の様に暗くなりガラスの破片がバラバラと身体に降りかかりあっちこっちで人のざわめきが聞こえます。早く逃げなければと思い外に出ると家とふ家、樹々も炎上している。人々は右往左往して文化爆弾だと叫んでいる。何が何だか分からず山に皆で逃げた(山の向ふが防空壕)。山もあちこち燃えている。気が付かずにいたがスカートもブラウスも無くなり裸になっていた。見兼ねた誰かが毛布を持って来て下さった。炎のためなかなか防空壕に行けず焼け死ぬのかと皆で口走っていた。やっとの思いで防空壕にたどり着いた。全身にガラスの破片がささり両腕に大怪我をしているがそのまま壕で一夜を明かす。翌明炊き出しのオニギリを頂いていると父と姉が探しに来て汽車が通っている処(どこ駅だったか覚えていない)まで歩く。途中見た物は浦上川には何百人かの焼け爛れた死人の山がどこまでも続く。家と言ふ家は皆焼けて無くなっている。道路にはあちこちで焼け死んだ人がごろごろしている。中には未だ生きたまま焼け乍ら水々助けて下さいと叫んでいる姿は此の世の物では無く地獄そのままだった。どの様にして家(旧喜々津村)に帰ったか着物は家族が持って来たのか又誰に貰ったのか覚えてない。

家に着くと同時に床に就いてしまった。全身倦怠感におそわれてしまった。右腕肘部には一センチメートル以上のガラスの破片が十数個以上入っていた。又何十年たってから三個程出て来た。右拇指は伸びない左腕にも大きな傷が残っている。

昭和四二年に心筋梗塞にて六ヶ月程入院又昭和六二年再発にてバイパス手術を行いよく助かったと皆に言はれた。平成五年C型肝炎(原爆の副産物と言ふ人もいる)輸血の故かよくわかりません。未だに一生通院入院を操りかへす事と思います。

又平成六年より糖尿病も併発、病院通いで忙しくしております。

又胎児であった長女の子供が身体障害者が生まれ三人死亡しやっと一人が元気でいます。私にはその他三人子供がいますが元気です。その為子孫についても心配で何か病気をする事に心配してびくびくしています。

此の様な恐ろしい悲惨な事は私共で最後にしたい

核兵器の廃絶を強くお願い致します。

 

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