鮮やかなコバルトブルーの白抜きのカモメがデザインされた布地で老妻が楽しそうになにやら作っているが、どうやら今流行のロングスカートらしい。こういう一刻が平穏と言うのだろうか。平成八年八月八日はもうすぐ来るが、八・八・八と語呂の良い数字が末広がりの幸福を自分にもたらすような気分になるが私はふと思う、かつての最も不幸せなときを。そう、あれはもう五十一年も前の夏の暑い日だった。
十九世紀ヨーロッパ列強各国は植民地獲得を盛んに行っていた。一八八五年にビルマ、一八八七年にベトナム、一八九三年にハワイ王国、一九〇九年にマレーを植民地としていった。明治政府が危機感を持つのが当たり前であり、日清戦争、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争と先進国と後進国の衝突は戦争という悲劇を生んでいった。そしていつの世も無力な庶民、ムコの民は国と国とのはざまで血を流し涙を流さねばさならなかったのではないか。
人間はなんという愚かなことをするのか、しかも歴史上で戦争が絶えたことが殆どないという。地球上のどこかで抗争、殺戮が行われている現実を思うとどうにもやりきれない気持ちになる。特に私は人類史上で類を見ない大量殺傷兵器の原子爆弾の炸裂を此の身で体験した。
いわば歴史の証言者でもあるのを思ったときなにがしかの感想を残したくなったのがこの一文である。努めて忘れようとしていた事、今まであまり他人に語ることもなかったあの日の事を思い出すままに記録してみる。
当時、私は旧制の長崎中学校の生徒であった。長崎が徳川幕府の鎖国政策で外国と交流せずに国を閉ざしていたときの唯一の窓として繁栄したのが長崎であったが、此の地に英語伝習館を設置したのに始まる伝統と格式を持つ学校であった。いわゆる長中の生徒は当時の長崎県内の学生のあこがれの学校であったので学生達は小さな鼻を高くして長崎の町を闊歩したものである。旧制高等学校の伝統的服装をまねして絣の着物にセルの袴をはき、腰に手ぬぐいを長く垂らし、高下駄を鳴らして坂の道を歩いたのが懐かしい。しかし時代の波は容赦なくそれらを吹き飛ばしてしまい、服装は緑色の(いわゆる国防色)の制服、編みあげ靴にゲートル(脚絆)を巻いたものに変わってしまう。神州不滅、打倒鬼畜米英のスローガンの暗い時代へと入っていった。勿論我々中学生は正規の授業として教練が組み込まれて一週に二、三時間は必ずやらされたものであった。鬼のような教官の罵声があびせられビンタ、正座、竹刀たたきは日常茶飯事だった。しかし当時の学生は銃を持つのがどこか楽しく教練の時間前には争って武器庫に入って好みの三八式歩兵銃を手にして喜んでいた、特に馬上銃、いわゆる騎兵銃は全体が短くなって片手で操作出来るため背の低い生徒は争って手にしようとしたものであった。
ズシリとくる重みの銃を持つのが楽しみでさえあった。クラス単位で銃を担いで整然と四列縦隊を組んで学校の正門を出て十分ほど離れた所にある教練場に行き、そこで教練をさせられる。射撃、匍匐訓練、敵味方に分かれての戦闘訓練など激しいものであった。交替で隊長をやらされ号令をかけねばならず、ちょっと間違うと鉄拳が飛んで来る大変な時代であったし、加えて食糧難に悩まされたのが思い出される。また、夜間行軍で一晩中銃を担ぎ背嚢を背にして歩かされたが、睡魔に襲われ、居眠りして列を離れて道端に行き側溝に落ちそうになったことは暖衣飽食の今の学生には想像も出来ない異常な事であろうか。
それもこれも今は昔の遠い出来事になってしまっている。まさに光陰矢の如しとはよく言ったものである。
戦争が長引くにつれて末期には学生も学校で勉強するのは半年だけになり、後の半年は軍需工場で働くことになり私も学徒報国隊の腕章をつけさせられ、三菱造船所の幸町工場勤務を命じられ「勉強しなくていいや」と気楽な気持ちでいたのが少年のノー天気さであったろうか。
当時私に与えられたのはミーリングや旋盤の仕事であった、三菱重工業は日本を代表する軍需工場であり世界一の戦艦武蔵をはじめ幾多の艦船、酸素魚雷、飛行機の部品を製作していたので米軍が最も注目した工場であった。私の仕事は船の推進に必要なタービンの羽根を作ることで当時の工場には正規の社員、工員に学生、それに連合軍の捕虜が使役されていたが、捕虜は木刀を持った監視員が目を光らせていた。私と目を合わせると愛想笑いをするのがいかにも外国人らしい、しかし痩せ細った姿が痛々しい感じがした。我々でさえ食糧難なのにまして捕虜の身ではろくに食べられないだろうにと同情したり「いやいや敵国の捕虜は憎いんだ」と自分に言いきかせたりしたものであったが、しかしこの敵も味方もが一瞬にして原子爆弾の閃光に襲われるとは神ならぬ身の知るよしもなしで人間の運命というものを考えさせられた。
その運命の日の一週間前に私は愛用のミーリングの機械と一緒に三菱造船所幸町工場から長崎市のはずれ近くに新設した戸町工場への転勤命令が出て不承不承ながら移ったのだったが、後から思うとそれが運命の分かれ目となった。私が勤務していた幸町工場は原子爆弾の炸裂で跡形もなく殆んどが吹き飛んでしまい、この工場にいた社員、工員、学生、捕虜はほぼ全員が帰らぬ人となってしまったからである。
昭和二十年八月六日午前八時十五分広島に飛来した米軍B29(爆撃機エノラゲイ号)が投下した原子爆弾は瞬時にして二0万人の人命を奪ってしまった。そして運命の日の昭和二十年(一九四五)八月九日じりじりと照りつける夏の日であった。温度は記録によると三十二度、午前十一時二分B29爆撃機(ボックスカー号)が投下した原子爆弾の閃光と轟音で長崎は破壊しつくされた。(長崎原爆資料館所蔵の被曝した柱時計は十一時二分で止まっているが、原爆投下した米軍特殊部隊第五〇九混成群団の作戦報告では午前十時五十八分と記されている。更に投下機の指揮官アッシュワース中佐の航空日誌にも投下時刻を午前十時五十八分となっているのが確認されており今長崎でも投下時刻が検討中とか!)
現在平和公園に記念像が建っている所が当時の松山町一七〇番地にあたり、その上空五〇〇メートルが原子爆弾が破裂した中心地であるという。つい一週間前まで一緒に私も働らいていた三菱造船所の工場群や、三菱兵器工場の人々七三八八四名が死亡、七六七九六名が負傷してしまう未曽有の大惨害となった。これはホロコースト=皆殺しにほかならない。爆心地の付近には瓊浦中学校、城山小学校、長崎刑務所、浦上天主堂、浦上駅、大橋ガスタンク、国立長崎医科大学、私立鎮西学院等々があったが飛散したり、破壊されつくし、樹木でさえもが消滅してしまうし、辺り一面累々として死体が転がっているという惨状はまさに地獄絵図そのままで夜は鬼哭愁々の状態であった。
(被曝者の現在までの死亡者数は平成八年=一九九六年現在、長崎市役所の発表で一〇八〇三九人に達している)
私はこの運命の日の前日、工場勤務が午後だったため自宅にいて米軍の艦載機グラマンF6Fの長崎市の攻撃を目の当たりにした。
巨大な敵機に向かう日本機が蚊トンボのように見えるし空中戦で撃墜される日本機を見るにつけ、もしかしたら日本は戦争に負けるかも?」の不安が心をよぎっていたし、目の前で落とされる小型爆弾の炸裂音のすさまじさ、長崎駅のプラットホームに落ちた爆弾の破裂で吹き飛ばされた首なし死体が十八体も我が家に運び込まれたのを見たショックで食事が喉を通らなかったことを鮮烈な印象として今でも思い出す。
(ちなみに当時の私の住居は駅前の寺であったためか本堂に遺体をずらりと安置したので死体と直面することになった)
さて私の新しく勤務する戸町工場は元は長崎半島野母崎に通じるトンネルであったものを急遽入り口を防護壁で覆い中に旋盤、ミーリング盤などを据え付けて臨時に工場としたものであった。中では正規の工員の他に我々学生が勤務しておりトンネルの中に更に壕を掘って爆弾攻撃の爆風を避けるように工夫していた、コンクリート製の側壁が堅くなかなか掘り進めず悪戦苦闘していたところ工場主任から「男子学生のくせに女子学生より掘るのが遅いのはなんじゃ」と叱咤激励され「えい糞!」と大型ハンマーを頭上に振り上げた瞬間に轟音と共に天井の電気が端から凄まじい早さで消えていき同時に爆風が襲って来て私は手に持っていたハンマーごと五メートルほど吹き飛ばされて壁に叩きつけられてしまった。工場内は一瞬にして暗くなり私は出口付近にいたので急いで外に出ると学友たちも何だ何だと言いながら這い出てくる。なにげなく空を見上げると茸型の雲が見えた、誰かが「変な雲だな」と言うが確かに夏の入道雲にしてはどこか変で雲にしては形が崩れるのが早い。
これが原爆雲と知ったのは一年後のことであった。この時工場の外で休憩していた学友が「なんだか顔の右半分がチクチクする」と言うので「どら見せてみろ」と言いながらそこを見てびっくり、つまり原爆の閃光線を浴びた顔半分がベロリと皮を剥いたように赤くなっているではないか「早く医務室に行って手当して貰った方が良いよ」と言ったのが彼の姿を見た最後になってしまった。我々学生達は工場の幹部に呼び集められ「ただいま長崎市街は新型爆弾を落とされ被害甚大である。よって本日の仕事は中止するのでそれぞれ家が近い者同士で組を作り帰宅せよ」と伝達された。我が家の安否を気づかいながら学友数人と帰途についたが、余りにも大変事に遭遇したのに気持ちは落ち着いていた。
工場への往復にいつも利用する連絡船は無いし、電車もバスも動いていないので徒歩で行くほかはない。歩くにつれ倒壊した家屋、電柱が散乱し、だんだんと市街地に近ずくにつれて盛んに燃えている光景、熱く焼けただれた道路で靴が燃えそうになって靴底がボロボロになってしまった。垂れ落ちた電線をくぐって進む。いつしか友人とも別れてただ一人我が家を目指すが、ついに靴底がパカッとはがれそうになり引きずりながらやっとのこと我が家のあった場所に到着して見れば一面火の海、さしも広い境内に大きな堂塔伽藍がたっていたのが消失していた。ただ石段のみが残っているばかり。呆然としてしばらく佇んでいたが気を取り直して家の者を探すことにして裏山に行ってみると母、兄、次姉、お手伝いの志保さんの四人が落胆した様子で固まっていたのに会う。私が無事帰って来たのを喜び合い、ここは少し危険だからもう少し上に移動しようということになりそれぞれが身ひとつで山に向かう。家財道具は勿論のこと貴重品すら持ち出せず、僅かに本堂からやっと持ち出した日蓮大聖人の木像だけをお手伝いさんが背中に背負っているのみ。
丘の中腹に掘られた壕の中に入って休むことになる。壕中は十数人の人々が疲れ放心した顔でいるばかり、夜がきて暗くなって来たら眼下は火の海、ガスタンクが爆発して凄まじい火をあげるのが散見される、われわれは黙って放心状態で眺めるばかりで誰もものを言わない。
でも人間の凄いところは「えいままよ」と思ったら度胸がつくもので生きてれば何とかなるさと思ってしまう。いつしか泥のように眠ってしまった。被曝当日、この日に父と長姉は市外に出ていて宿舎から長崎方面が赤々と燃えているのを見て大被害らしい大変だと思ったという。翌日にとるものもとりあえず長崎入りして我々と合流し涙と共に再会を喜び災難を悲しんだ次第。
早速にも困ったのが住む場所、幸いにも知人の家が郊外の道ノ尾村にあり(割烹旅館・桃太郎)部屋を提供してくださったので父と母をお願いする。私達は焼け跡からトタン板とか針金、材木をひろってきて墓の中に小屋掛けしてどうやら野宿しないですんだ。その後、だんだん手を加えて不便ながら生活出来るようにする。自炊もするし毛布も入手するし、なんとかなるもんである。余談ながら去年の阪神大震災で焼け出された人達が救援の食事が遅いだの、冷たいだのと文句を言うのをみた時「なんという恵まれた人々だろう」と感じたのは私がもっと極限の状態に置かれたからだろうと断言できる。現在の若い人達は贅沢に馴れ過ぎてるし、辛抱すること、我慢するということを知らない。
私が被曝当時に救援として貰ったのは握り飯を一、二個でしかも炎天下で腐りかけたものであったし後は何ひとつ救援物資はなしで終り。人間食べないと死ぬので必死になって食糧となるものを確保するのが大変であった。あるときは倉庫に缶詰があるぞとの情報で人々が海岸の倉庫にいくと半分焼けた缶詰が大量にあった、ラベルがないので何かわかないが持ち帰って開けてみると甘く味付けした豆の缶詰、鰯のトマト煮等のオーバル缶であった。また或時は次姉が勤務していた長崎医大の研究室に米があったと思い出し、遠いが戴きに出向いたこともあった。途中にはたくさんの遺体がころがっておりむごたらしいが心を痛めてるばかりは出来ず目をつぶって進んだものであった。ようやく少しの米を手に入れて帰宅して米を研いだものの水が赤く染まるのでおかしいなと思ったら驚くべきことに米の中に粉々になったガラスが入っていて手が怪我して血が吹き出てるではないか、つまり原子爆弾が破裂した時に瞬時にして窓硝子が砕け散って米の中に入ってしまったと思われる。
全く異常としか言いようがない状況下であった、それに加えて私達の住んでいる墓場の中の仮小屋のすぐそばでは死体を焼いているという状態を何と表現すればいいのだろうか、拾い集めた木切れに油を掛けて燃やすのだが良く燃えず腸がハジけてその匂いが辺りに漂う、それが連日のように続くのだからたまらない気持ちになってしまう。更に私は郊外に疎開した両親との連絡係として仮小屋と両親の疎開先との往復を繰り返したために数限りない人間の死体を見ることになった、累々として横たわる数千、数万の死体、誰とも知らぬ人の頭蓋骨を手の平の上に乗せて見たこともあった。市電は屋根、車体、窓も吹き飛んで台車だけ残った所に折り重なった焦げた黒褐色の死体の数々、あるいは線路のうえに残っているのは市電の車輪だけで人間は数メートルもふっ飛ばされて側溝の中に折り重なって黒焦げになっていたり、真っ赤な消防車の焼け落ちたタイヤのそばに寄り掛かるようになっている白骨の死体が奇妙なコントラストをみせていた、防火用水の中に入ったまま水面から上は黒焦げ水面下は生身のままの死体、小さな死体をかかえこんだような形の母親らしい炭化した死体、溝の中で天を仰ぐような形で目を剥いている生身の死体が今も鮮烈に目に焼きついている。死体は爆心地に近いと黒く炭化しており、次第に黒褐色、褐色、生身の色という風に変化しているのが凄まじかった、また戦争末期のためガソリンも不足がちになりトラックも軍用以外は使用出来ず代用品として馬車が盛んに使われていた、その馬達が一様に四肢を宙に向けて伸ばして死んでいる、原爆の爆圧を受けてか尻から太い四~五メートルもの長い腸を剥き出しにして数多く死んでいるのが異様な光景であり、もの言わぬ動物だけに痛々しい。
私は生涯この鮮烈な印象は忘れることが出来ない、ただ余りにも辛いのでつとめて思い出さないようにしているのが正直な気持ちである。
戦闘中の軍ならば仕方ないが非戦闘員を大量に殺戮するのが果たして戦争の名で許されるのであろうかと思う。スポーツにもルールがあるように戦争にもルール即ち国際協定があって非戦闘員、病院、病院船、病院車は攻撃しないのが当たり前ではないのだろうか。
しかし勝てば官軍、負ければ賊軍。第二次世界大戦に敗戦したドイツはニュールンベルグ裁判で日本は東京裁判で戦争犯罪とやらで裁かれ、被占領地として管理される、この矛盾をどこで誰が正してくれるのであろうか?なのに人間の業というべきか愚かというべきか現在でも民族の対立、宗教の対立、部族の対立で憎しみ合い殺戮し合っているこの現実を悲しむほかないとか?!心から平和が地球上に来ることを願うのみ。私に限って言えるのは人間どん底までいったら、極限状況まで経験したらば強くなるもので以後の自分の人生が芯の通ったものになっていったのは何よりの心の財産であろうか。
山田 文男
平成八年八月五日(一九九六)
長崎で被爆・被爆時一六才
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