一九四五年八月九日、被爆したときは爆心地から約三キロメートルの伊良林国民学校の脇の路地を入った路上で爆風に飛ばされ、塀にぶっつけられて、したたか腰を打った。
被爆時の直接の被害はその程度だが、原爆投下の三○分前まで私は長崎駅にいた。当時中学二年生も学校工場に動員されていて、夏休みもなかった。幸い二、三日の連休が取れたので、九日は、島原半島の故郷へ帰るための乗車券を求めて、早朝から駅の行列に並んでいた。順番はかなり後の方だった。だが、途中で空襲警報が出て全員防空壕に避難したために、列の順番はなくなった。空襲警報解除になって、再び行列ができたとき、私はちゃっかり、前の方にいた。間もなく切符は買え、電車で伊良林近くの下宿に帰る途中、原爆に遭った。
山の防空壕で一夜を明かし、翌日、街中で出会った「幽鬼の列」に衝撃を受けた。
年をとるとともに、長崎駅でのことが、胸の底で次第に重くなってきた。私のズルい行為で私自身は助かったが、私の代わりワリをくい長崎駅に残って被爆した人がいるはずだ。その人はおそらくなくなっただろう。
私の代わりに死んだであろう、その人の分も、訴えつづけなければと思うようになった。
「ふたたび被爆者をつくらない」ために、この世から核兵器をなくすこと、原爆被害への国家補償制度(被爆者援護法)を確立すること。私たち被爆者の目の黒いうちに、この二つを実現させたいと、切実に願っています。
日本政府は被爆者の願いにこたえるべきです。
【吉田一人さんの「吉」の部首「士」は、正式には「土」です。】
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